全身白塗りの異形な姿で表現される「舞踏」――それは、日本が生んだコンテンポラリー・ダンスの独特のスタイルだ。1960年代、大野一雄さんは暗黒舞踏の創始者・土方巽との共演を通して、この「舞踏」と呼ばれる独特のダンススタイルを創造した。「舞踏」が生んだ革新性とは、「西洋の影響を強く受けたモダンダンスから、日本人の内面的な問題を扱う身体表現への転換」であると言われる。土方巽によって演出された『ラ・アルヘンチーナ頌』(1977年初演)は大野さんの代表作となり、1980年のフランス・ナンシー国際演劇祭に招かれ初の海外公演として大野さんが踊った『ラ・アルヘンチーナ頌』は、欧米の芸術家たちに大きな衝撃を与えたという。それにより、「舞踏」は「BUTOH」として世界中に広く知られることとなるのである。以後、大野さんの活動場所は海外が中心となり、70代、80代、90代を迎えても世界各地に招かれ、公演が行われ続けた。そして100歳を迎えようとする今も、不自由になった体と目で、大野さんは「舞踏」と対峙し続けている。
そんな大野さんがダンスと出会った場所は横浜だった。1906年に北海道函館で生まれた大野さんは、日本体育会体操学校(現・日体大)を卒業後、横浜の私立関東学院に体操教師として赴任。そこで女生徒たちに教える創作ダンスの勉強のため、舞踊学校(モダンダンス)の門を叩いたのである。その後、大野さんは同じく横浜の捜真女学校に就職し、1980年まで同校に勤めている。戦時中には陸軍大尉として華北・ニューギニアにて従軍し、一年間の捕虜生活の後に復員。すぐにダンス界にも復帰し、1949年に神田共立講堂にて「第一回大野一雄現代舞踊公演」を開催するに至る。この時、43歳。遅いデビューであった。以後、毎年のように自主公演を重ねる一方で、1955年には第十回国民体育大会神奈川大会開会式のマスゲーム「美と力」の振付を行うなど、戦時中のブランクを取り戻すかのごとく精力的に活動する。そして、1959年に土方巽と出会い、前述した大きな転換期を迎えたのである。
横浜市保土ヶ谷区上星川に、大野さんと、その息子である慶人さんを中心に、舞踏家や芸術家が集い舞踏を研究し実践する場「大野一雄舞踏研究所」がある。稽古場に足を踏み入れると、平屋木造のたたずまいが誰をも暖かく迎え入れ、そして心地よい緊張感を与える。床と窓枠は、大野さんが勤めていた捜真女学校の木造体育館が取り壊された際にもらい受けた廃材を使用して作られたという(床面は後、張り替えられた)。床面積99平米。壁と天井はすべて白く塗られ、壁面には衣装や小道具が所狭しと積み上げられている。現在は慶人さんがここで週に3回、研究生たちとともにワークショップを行っている。日本人だけでなく、インド人、イスラエル人、カナダ人、ブラジル人、イタリア人、アルゼンチン人……。国際色豊かな研究生たちの顔ぶれに、「舞踏」が世界の「BUTOH」であることをあらためて実感させられるのである。
片言の日本語と英語が飛び交う稽古場に、なんの前触れもなく音楽が流れると、研究生たちはまるで会話の続きのようにごく自然に音楽に乗って動き始めた。思い思いのポーズで、思い思いの道具を手にし、空気の中に分け入って行くように体を動かしていく。慶人氏は、そんな研究生たちの足下をじっと見つめ、音楽が途切れると「今日は『走る』ことをやってみましょう」と言い出した。「足で祈る」ことが今日の課題だ。体を支えるためでもなく、移動の手段としてでもなく、祈るために走る。「あそこまで走るんだ、あっちへ走るんだと、見ている人に読まれてはダメ」と慶人さんの檄が飛ぶ。おそらく、大野さんが研究生たちと稽古をしていた頃にも、同じような光景が見られたことだろう。大野さんの言葉は、『大野一雄 稽古の言葉』(大野一雄 著・大野一雄舞踏研究所 編/フィルムアート社 発行)という本にまとめられており、その後書きでは、大野さんが多くの言葉を「語りながら踊っていた」と、大野一雄舞踏研究所の溝端俊夫さんが書いている。
稽古後には、慶人さんを中心にして自然に輪ができていた。舞踏のこと、今の日本のこと、大野一雄さんの言葉について。あらゆる話題が交わされ、慶人さんの言葉が通訳されていく。そんな稽古場のことを、イタリア人の研究生は「教会と同じ」と表現する。土方巽を始め、たくさんの舞踏家たちが過ごしたこの稽古場で、大野さんや慶人さんの言葉を聞き、踊る。舞踏を志す世界中の踊り手にとって、この横浜の稽古場は聖地なのである。
研究生といっても、ワークショップには経験や所属に関係なく、誰でも参加できる。劇団に所属して演劇をやっているという20代の日本人男性は、「バイトがある日でも、今日は稽古に行ける日だから頑張ろう、と思える。こういう世界もあるんだな……と舞台の可能性が広がっていく感じがとにかく楽しい」と目を輝かせる。
「『俺はこれだけ研究しているんだから、舞踏というものを伝えたい』と父に言われ、半ば強制的に私はこの世界に入りましたが、最近は私が父と土方さんから受け継いだものを次の世代に伝える大切さと、責任をひしひしと感じるんです。知っている限りのことを教えて、若い人を育てたいと思っています」と、慶人さんは語る。
若い世代を育てるには、この稽古場での実践と、そして大野一雄の軌跡を学ぶことも、また必要となる。BankART1929内には2004年から、大野一雄さんに関する数多の映像および書籍などの資料収集整理を行うアーカイブ資料室が作られており、フェスティバル開催期間中は、この資料室も公開される。しかし、なんといっても大野一雄アーカイブ構想の目玉とも言えるのが、この稽古場の改修・保存なのである。「隣接して資料室を作り、この稽古場自体をアーカイブにしよう、という話もあります。ここへ訪れた研究生たちも自主的に基金を作ってくれていて、決して豊かではない留学生活の中から1人千円、二千円と置いていってくれている。その気持ちを大切にするためにも、このフェスティバルを機に構想を広げたいものです。そこから、若い世代を育てて世界へと送り出す。アーカイブという『過去』を大事にするだけでなく、そこから『未来』を作る、ということが肝心なのです」(慶人さん)。
10月27日から3日間にわたって開催される「大野一雄フェスティバル2006 ~大野一雄100歳の年 最小の肉体 最大の命~」。フェスティバル初日には大野さんを迎えてのパーティー、「大野一雄アーカイブ構想」のプレゼンテーション、大野さんに触発された作品を上演するための「オープンステージ」などが予定されている。翌28日は、大野さんを撮り続けた映画監督、故・ダニエル・シュミットの未公開作品を含む映像の上映、そして最終日の29日には、「1000人が語る大野一雄」と題したアーカイブプロジェクトのなかから、演劇評論家・渡辺保さんと舞台評論家・中村文昭さんのレクチャーと、慶人さんの最新作の舞踏が予定されている。また、期間中、ホールにおいては大野さんを46年もの間撮り続けている写真家・細江英公さんの写真集「胡蝶の夢: 舞踏家・大野一雄」の公開と、かつて大野一雄舞踏研究生でもあった映像作家・丹下紘希さんによる大野さんの最新映像「イエス 花 死 生」も初公開される。
BankARTで100歳の舞踏家・大野一雄さんのフェスティバル 細江英公人間写真集「胡蝶の夢: 舞踏家・大野一雄」
また、今年の10月から来年にかけて、「大野一雄100歳の年 総合プログラム」としてパリ、ボローニャ、ニューヨークなどで大野慶人公演・ワークショップ、写真展や映像上映会が開催される。日本では、10月14日~23日までの10日間、大野一雄さんを被写体として写真を撮ってきた42人の写真家による写真展「秘する肉体」が新宿で開催され、15,000人以上が来場し盛況を見せた。2007年1月27日・28日には、神奈川県立青少年センターホールで大野一雄100歳の年 ガラ公演「百花繚乱」が開催される。
ボローニャ大学 大野一雄アーカイブ 大野一雄写真展「秘する肉体」
横浜から始まり、世界へと広がっていった「舞踏」の世界。目を患い、体力の衰えも顕著になった大野さんは、老いをダンスの糧とするかのように踊り続けている。立って歩けなくなっても座ったまま踊る。人を感動させる芸術家・大野一雄さんと、その研究生たちが守り育ててきたものを、横浜が誇る文化のひとつとしてさらに発信していくこのアーカイブ構想に期待したい。