4月15日午前――伊勢佐木町にあるミニシアター「横浜ニューテアトル」で1本の映画が封切られた。11時からの上映を前に映画館の前は長蛇の列で、その列はイセザキモールにまで連なっている。ハリウッドの娯楽作ならいざ知らず、比較的マニアックな映画が上映されることの多いこの種の映画館では、極めて異例のことだ。
ヨコハマメリーその映画のタイトルは「ヨコハマメリー」。横浜の伝説的な娼婦「メリーさん」にテーマを求めたドキュメンタリー映画だ。メリーさんとは1960年代初頭から30年以上もの間、横浜で娼婦としての生き方を貫いた女性(昨年1月に死去)。貴婦人のようなドレスに身を包み、歌舞伎役者のように顔を白く塗ってひっそりと街角に佇む姿はハマっ子なら知らぬ者がいないほどの存在で、横浜の都市伝説と化していた。それだけにメリーさんの存在は表現者の創作欲を刺激するらしく横浜在住の作家、山崎洋子はメリーさんを題材にしたノンフィクション「天使はブルースを歌う」を発表し、メリーさんにインスパイアされた女優の五大路子は一人芝居「横浜ローザ」を10年以上にもわたって演じ続けている。若い人にとっては、永瀬正敏主演の映画「濱マイクシリーズ 遙かな時代の階段を」で坂本スミ子が演じたメリーさんと思しき女性が記憶にあるかもしれない。
「冬桃宮」(山崎洋子ホームページ) 五大路子オフィシャルサイト
「ヨコハマメリー」でメガホンをとった監督の中村高寛は弱冠30歳。本作がデビュー作にあたる。中村はメリーさんとの出会いを次のように語る。「初めて出会ったのは中学時代。映画が好きだったので毎週末のように伊勢佐木町を訪れていたのですが、そこにいつもいたのがメリーさん。あの通り、白塗りの厚化粧で異様な風体でしたから、最初は怖かったし違和感もありました。でも横浜の名物みたいな存在だったので、次第に慣れましたけどね。毎週末のようにメリーさんを見かけて、月曜日に学校に行くとクラス中がメリーさんの話題で持ちきりでした(笑)。人によっていろいろあると思いますが、私にとってメリーさんとはそういう存在でしたね」。
30年以上にわたって伊勢佐木町や福富町、関内といった横浜の中心街に立ち続けたメリーさんは95年の冬にプッツリと消息を絶つ。実際には、寄る年波から身体を壊した彼女は支援者らによって郷里へ送り届けられたわけだが、そんなことを知る由もない当時のスポーツ紙や週刊誌といったメディアではメリーさんの消息が取り沙汰された。突然消えてしまった「ハマの風物詩」に多くの人達が戸惑い、そしてメリーさんの安否を危惧する。中村もそんな一人で、メリーさんと交流のあった人達を訪ねて回り、彼女に関する証言を集めていった。「97年頃からメリーさんの消息を求めて、いろんな人達に話を聞いていったんですが、当時は個人的な好奇心というだけで、もちろん映画化なんて考えてもいませんでした」。
次第に、中村はこう考えるようになる。「メリーさんへの思いは十人十色。それぞれのメリーさん像を集めていけば、一つの映画作品としてイケるのではないか」と。だが、メリーさんをよく知る人達は当初、中村の映画化案には否定的だったという。「私より上の世代の人達はメリーさんへの思い入れが強すぎて、彼女を聖域化しているようなところがあるんでしょうね。『メリーさんについて余計な詮索をするな』『メリーさんは横浜にいないのだから映画化は不可能』などと言われたものです。ちょっと心外でしたね」。彼らには、海のものとも山のものとも知れない若者の興味本位の思いつきと映ったのだろう。だが、中村には、よくあるようなドキュメンタリー映画を撮るつもりはなかった。
メリーさんは何を考え30年間以上も横浜の繁華街に立ち続けたのか? メリーさんはどのような素性なのか? そんなことを期待して「ヨコハマメリー」を観ると、きっと肩透かしを食うだろう。映画ではメリーさんの実像が明かされることはない。実際に動いているメリーさんが映画に出てくるのはラストシーンのみで、それ以外の彼女の登場シーンは全て写真家の森日出夫の撮影によるスチール写真のみである。「メリーさんの実像を明らかにしたりするのがドキュメンタリーの王道なのでしょうが、そういうものは作りたくなかった。そうした手法では逆にメリーさんを矮小化してしまうのではないか、と考えました。私としては、映画を通して横浜を象徴するメリーさんの記憶をいろんな人達に語ってもらうことで、横浜の戦後の裏面史を浮き彫りにしたかった」。
誤解を恐れずに言えば、メリーさんの「実像」とは一人の売春婦に過ぎない。だが、そこではハマっ子たちがメリーさんに寄せる様々な想いは一顧だにされない。中村が言う「矮小化」とは、そういうことである。確かにメリーさんという個人の実像は「事実」なのかもしれないが、「真実」はそんなところにあるのではない。むしろ、それは人々の彼女への思いの中にあったりする。事実と真実は時として異なるものである。その意味では、「ヨコハマメリー」は「メリーさんの」ドキュメンタリー映画というよりも、「メリーさんに関する」ドキュメンタリー映画と言った方がより正確なのかもしれない。
メリーさんという存在を通して横浜の戦後史を語る、という中村の着想は前述の森日出夫との出会いによって、一気に具体化する。生まれも育ちもハマっ子である森は、95年にメリーさんの写真集「Yokohama Pass」を自費出版している。中村のアイデアに賛意を示した森には、こんな記憶がある。「以前、写真展を催した時、展示写真の中にメリーさんの写真もあったんだけれど、その写真の前に多くの人達が集まってそれぞれのメリーさんの思い出を語っているんだよね。自然発生的に見知らぬ者同士がメリーさんの思い出を語り合うというのは、非常に面白いと思った。つまり、メリーさんとはハマっ子が共有できる記憶なんだよね。そういう意味では、中村君のやり方は正しかったと思うよ」。
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メリーさんの思い出は、「オキュパイド・ヨコハマ」(占領された横浜)の記憶でもある。彼女が横浜にやって来たのは1963年のこと。それまでは横須賀で米軍将校相手の売春婦をしていたという。メリーさんに限らず、当時の伊勢佐木町の大通りには多くの街娼達が出没しており、道行く米軍兵に声をかけ客引きを行っていた。開港以来、横浜の発展の裏には常に西洋人相手の売春の歴史がある。明治時代、本牧海岸にできた居留地に住む外国人相手の風俗店である「チャブ屋」に始まり、戦後になると山下町の「互楽荘」など米軍相手の慰安所や、「オンリーさん」とも「洋パン」とも呼ばれたメリーさんのような米軍兵相手の街娼が登場する。
だが60~70年代、高度成長を迎え国民生活が豊かになり、ベトナム戦争の終結によって米軍兵が激減すると、街娼も徐々に姿を消していく。だが、メリーさんだけは相変わらず夜の街に立ち続けた。60年代以降、横浜のみならず日本という国そのものが劇的な変化を遂げていく中で、メリーさんだけは変わらなかった。変わったのは、老いから来る容貌の衰えを隠すために次第に白塗りの厚化粧になっていったことぐらいだろうか。
森は「森の観測」と名づけたライフワークとして、ファインダーを通して変わりゆく横浜の港や街、人を記録に残している。メリーさんもその中の一つである。森曰く「建築物なんかでもそうなんだけど、僕が気になって写真を撮ると取り壊しになっちゃったりするんだよねえ(笑)。というよりも、何となく『この建物はなくなりそうだ』というのに気づいちゃうというかね」。歴史ある建造物がなくなったり、新たなものに取って代わることに対して、森は「それは時代の要請だから仕方のないこと」と話す。「ただし」と断りながら、「その街に住んでいる人達の記憶に残さなければならない。『文化遺産』という言い方があるけれど、『記憶遺産』みたいなものを残す必要があるのではないか。そして、変わりゆくものや失っていくものに対して、人はもっと敏感になるべき」。95年にメリーさんが横浜から去った時には、本来あるべきものが街からなくなってしまい、しばらくの間、違和感が付きまとったという。「その意味では、『ヨコハマメリー』は格好の記憶遺産と言えるんじゃないかな」。
森は言葉を続ける。「メリーさんは30年以上もの間、横浜にいたわけだよね。ということは今、80歳ぐらいの人から20歳代前半ぐらいの人達はメリーさんのことを知っているわけじゃない? 世代間の断絶が叫ばれて久しいけど、ことメリーさんに関しては3世代の間で共有できる記憶や話題なんだよ。こんなことって普通はないよね。メリーさんを媒介に3世代の人達がつながりを持てるというのは、本当に素晴らしいこと」と、上の世代から下の世代へ受け継がれていく記憶の大切さを説く。「そういう記憶遺産の継承というものを、我々はもっと真剣に考えなければいけないね。『ヨコハマメリー』を観て、本当にそう思った。まだまだ人はつながることができると思うと、まんざら捨てたものじゃないよね」。
森にとって「ヨコハマメリー」が記憶遺産であるならば、中村にとっては一体何だろうか。「私にとって、『ヨコハマメリー』は自分自身が横浜を知っていくプロセスだと言えるでしょうね」。メリーさんについての取材を重ねていくうちに、単に映画を観に行くだけの街に過ぎなかった伊勢佐木町に、さまざまな歴史や出来事があったことを知るようになった。映画の製作を通して、自分がハマっ子であることを認識させられたというわけである。「自分の拠って立つところを確認でき、やっと映画監督としてスタートラインに立ったという感じです。ますます、横浜について関心を持つようになりました。次回作も横浜をテーマにした作品を撮りたいですね」。
(文中敬称略)
牧隆文 + ヨコハマ経済新聞編集部