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創建90周年を迎えた“横浜のシンボル”
外国文化伝来の息づかいを今に伝える「開港記念会館」

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■横浜三塔にまつわる「都市伝説」

創建90周年を迎えた横浜市開港記念会館

  「横浜三塔物語」なる“都市伝説”をご存知だろうか? 「横浜三塔」と言えば、ハマっ子にはお馴染みの横浜を象徴する歴史的建造物。横浜市開港記念会館、神奈川県庁、横浜税関を指し、それぞれ「ジャック」「キング」「クイーン」の愛称で知られている。なぜ、こうした愛称で呼ばれるようになったのかということには諸説あるようだが、外国から来た船員たちがそれぞれトランプになぞらえてつけたという説が有力だ。その横浜三塔にまつわる“ある伝説”が最近、ハマっ子の間で話題になっている。

横浜市開港記念会館 横浜市観光コンベンションビューロー

「ジャックの塔」の愛称で親しまれる 現在、ランドマークタワーをはじめとする高層ビルやマンションが林立する横浜では、この三塔を同時に一望できる場所は3カ所しかないという。そして、その3カ所全てをめぐり横浜三塔を眺めると願いがかなう、というのが横浜三塔物語なのである。この都市伝説の由来は2つあると言われており、1つは「外国の船乗りが、横浜三塔に航海の安全を願かけした」という説、もう1つは「三塔が震災などの試練を乗り越えてきたことから、カップルが困難を乗り越えて結ばれる」という説。どちらも「なるほど」と頷けなくもない。

 そんな横浜三塔だが今年2007年、三塔の1つである「ジャックの塔」こと開港記念会館が創建90周年を迎えた。去る7月1日、開港記念会館で同会館の創建90周年を記念してあるイベントが開催された。「ハマのジャック90年の歩み講座&とことんジャック探検ツアー」と題したこのイベントでは、過去の貴重な写真や資料のスライド上映や記念講座などが行われたが、何と言っても最大の呼び物だったのは「館内探検ツアー」。普段は立ち入ることのできない時計塔や地下室を、この日は来場者たちに全面開放。来場者たちはその90年の歴史の重みを体感することができた。

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■開港50周年を記念して創建された「ジャックの塔」

日本美術院の創設者である岡倉天心生誕の地 横浜市開港記念会館は1917年に横浜開港50周年を記念して市民の寄付金によって創建され、1989年には国の重要文化財に指定された公会堂。創建された場所は、時計台として当時の横浜市民に親しまれた町会所(1874年竣工、1906年焼失)の跡地。開港記念会館も、横浜で最初となったコンペに基づき設計者が決められ、旧町会所の時計台のイメージを継承した案が当選している。また、この場所は美術家・美術評論家として名を馳せ、東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立に大きく貢献し、日本美術院の創設者である岡倉天心生誕の地であり、今でも開港記念会館にはその碑が建てられている。

 開港記念会館はこれまでに2度、大きな危機を迎えている。1つ目は、1923年に起こった関東大震災。避難者数190万人以上、死者・行方不明者数10万人以上、家屋全壊10戸以上、家屋焼失21万戸以上を数えた未曾有の大災害に、その他多くの建築物とともに開港記念会館も襲われた。会館は時計塔と壁面だけを残し、内部はすべて焼失した。

 関東大震災から4年後の1927年、震災復旧工事が竣工した。設計は創建時と同じスタッフが担当した。復旧工事では、細部にいたるまでのデザインを震災以前の状態に復元することを目指したことはもちろん、「二度と震災で倒壊しないように」という市民、関係者の思いのもと、建物自体の構造補強に重点が置かれた。その甲斐あってか、開港記念会館は当時の建築物としては、他に類を見ないほどの建築強度を誇っている。この時は資金的な制約もあり、ドーム部分を復元するには至らなかったが、それ以外の部分は、この時再建されたものが現在の開港記念会館の姿である。

■第二次世界大戦の戦火から免れる

 次の危機は、それから18年後の1945年に起こった。第二次世界大戦の末期、1945年5月29日午前、横浜市はアメリカ軍による大規模な空襲にさらされた。街は火の海と化し、逃げ惑う人々をその炎は容赦なく襲った。たった一日で3650人もの命を奪った横浜大空襲。開港記念会館がある関内・桜木町地区の多くの家々も焼かれ、あたり一帯は焼け野原となった。しかし、前述したように関東大震災後に再建されたものが、今の開港記念会館の姿なのである。戦争では焼けなかったのだ。

開港記念会館はまさに「横浜」そのものと言える存在 なぜ、開港記念会館だけは焼けなかったのか――。自分の家を焼かれた当時の市民たちが必死に防火活動をしたおかげだと言われている。自分の家を焼かれ、街を壊されたのにもかかわらず、いやだからこそ、当時の“横浜の顔”であった開港記念会館だけは焼かれてなるものか、という思いがあったのだと言い伝えられている。

 こうして、開港記念会館は市民のおかげで焼かれることなく残った。そう考えると、開港記念会館はまさに市民が創り、市民が育て、そして市民が守り抜いた建物なのではないだろうか。寄付によって創建され、寄付によって再建され、市民の手によって守られた。そういった意味で、開港記念会館はまさに横浜の文化、あるいは「横浜」そのものと言える存在なのではないだろうか。

■日本の近代建築史の中でも重要な位置を占める建造物

日本の近代建築史の中でも重要な位置を占める建造物 開港記念会館は、日本の近代建築史の中でも重要な位置を占めている建造物でもある。開港記念会館の建築様式は、赤レンガと花崗岩を取り混ぜた「辰野式フリークラシック」が採用されている。フリークラシック様式とは19世紀後半にイギリスで用いられた手法で、外壁は赤レンガを露出し、花崗岩を配するところにその特徴がある建築様式である。日本では、辰野金吾が明治時代後半から大正期にかけて、この手法による建築物を百数十件建てたところから、「辰野式」と呼ばれている。この辰野式は主だったところでは他に東京駅、日本銀行本店、大阪市中央公会堂、第一銀行神戸支店(現在は外壁のみを神戸市営地下鉄みなと元町駅の入り口として利用)などの国指定の重要文化財で採り入れられている。

日本のステンドグラスの歴史を語る上でも貴重なもの さらに、2階のホールや中央階段の壁面にあるステンドグラスもその特徴的なものとして挙げられるだろう。このステンドグラスは日本のステンドグラスの開祖、宇野澤組ステンドグラス製作所による由緒あるもの。この時代、日本ではステンドグラス自体が非常に珍しいものだったのだ。創建当時、国会議事堂のステンドグラスでさえも外国製のものだったのだから、日本のステンドグラスの歴史を語る上でも貴重なものなのである。

 また開港記念会館は、欧米諸国をはじめとする外国文化の窓口だった当時の横浜を象徴するものでもあった。当時、同会館で公演を行った面々を見てみると、錚々たるものである。日本人初の国際的プリマドンナとして欧米各地のオペラハウスで活躍したソプラノ歌手・三浦環。日本を代表するテノール歌手であり、藤原歌劇団の創始者・藤原義江。日本クラシック・バレエの育ての親、エリアナ・パヴロバ。20世紀のもっとも偉大なバイオリニストの一人と言われているミッシャ・エルマン……。世界的スター演奏家や歌手がこぞって同会館のステージで公演を行っている。こうしたことから当時、開港記念会館は「文化の殿堂」と呼ばれていたという。

■使い勝手は良くなくても独特の雰囲気が魅力

渡邉順生さん(左)と朝岡聡さん 「文化の殿堂」――。かつて、そう呼ばれた開港記念会館の雰囲気は現在にまで息づいている。「音響だとか施設の設備だけをとってみたら、他に良い会場はいくらでもある。だけど、開港記念会館という会場はそれを補ってあまりある魅力がある。確かに、古くて歴史がある建物だけど、それだけではない独特の雰囲気があります。先人たちが長い年月をかけて文化を育んできた重みというのでしょうか。クラシックコンサートにおいてはこうした雰囲気は非常に重要なんですよ」と語るのは、リコーダー奏者としても数多くの舞台を経験していることでも知られるフリーアナウンサーの朝岡聡さん。「クラシックコンサートに来るお客さんというのは、演奏者、音楽と一体になりたいと思っていらっしゃると思うんですよ。そうしたとき、この会場の大きさや雰囲気というのは、クラシック音楽の世界に入り込んでいく上で大きな役割を果たしているのではないでしょうか」と話す。

朝岡聡(オフィス・トゥー・ワン)

 朝岡さんとともに「山手プロムナードコンサート」を横浜市内の各地で行っているチェンバロ奏者の渡邉順生さんも、「私は横浜でずっと育ったのですが、開港記念会館というところは横浜の顔というイメージが強いですよね。ヨーロッパだと温故知新の精神というか、古い建物でコンサートを開催したりということがよくあるのですが、日本ではあまりありませんよね。開港記念会館は歴史的に見ても、コンサートなどの文化的な催しが行われてきたという側面があります。独特な雰囲気を持つステージであることは確かですよね」と話す。

Cembalo, Clavicordo & Fortepiano(渡邉順生ホームページ)

パントマイミストの北京一さん 一方、開港記念前夜祭のイベントとして同会館で開催された「横浜フィジカルシアター」に出演したパントマイミストの北京一さんは、「使い勝手は確かにあまり良くない。文化財だから汚せないという面で、プログラムも他のステージと変えなければいけないということもある。だけど、そんなことを超越した魅力がこのステージにはある」と語る。もともと、音楽やパフォーマンスを行うことを目的に建てられたわけではない開港記念会館だが、多くのアーティストやパフォーマーに「素晴らしいステージ」と認識されているのだ。

北京一公式サイト 関連記事(ヨコハマ経済新聞)

 また、開港記念会館が醸し出す独特の雰囲気は、画面や写真を通しても伝わるものなのだろうか。テレビドラマや映画、雑誌グラビアなどの撮影にも数多く登場している。人気ドラマ「のだめカンタービレ」(フジテレビ系)、女優・夏目雅子さんの生涯を描いた今秋放送予定のドラマ「ひまわり~夏目雅子27年の生涯と母の愛~」(TBS系)の撮影にも使用されている。

のだめカンタービレ公式サイト(フジテレビホームページ) ひまわり~夏目雅子27年の生涯と母の愛~公式サイト(TBSホームページ)

■現在でも稼働率は年間9割を超える

 関東大震災の再建時に、1カ所だけ復元できなかったドーム部分の復元がなされたのは、1988年のこと。故・松村貞次郎(東京大学名誉教授)を委員長とする「ドーム復元調査委員会」の提言により着工された。復元に当たっては、図面と竣工時の古写真を徹底的に比較検討、開港記念会館は本当の意味で創建当時の姿を現代に蘇らせた。完成したのは翌年の1989年6月。これを待っていたかのように、同年9月に同会館は国の重要指定文化財の指定を受けた。

 さらに1999年~2000年にかけ、建物内部の老朽化対策として大規模な改修工事が行われた。また、1997年に制定された「横浜市福祉のまちづくり条例」に基づき、エレベーター新設、トイレの新設・改修が行われた。「今、開港記念会館の稼働率は年間9割を超えています。問い合わせや申し込みは引きも切らない状況。このような公会堂は全国を探してもあまりないのではないでしょうか」と、同会館の館長代行である杉山吉男さんは話す。

90年もの間、横浜のシンボルとしてあり続けてきた 90年もの間、横浜のシンボルとしてあり続けてきた開港記念会館――。その90年の間に、横浜の街は大きく様変わりした。ビルは立ち並び、市街地は整備され、当時50万人だった人口は今や360万人を数えている。横浜の歴史はこれからも続き、同時に開港記念会館の歴史も積み重ねられていく。ハマっ子たちにとって、開港記念会館はその歴史を振り返るだけで、横浜、そして自分たちの歴史を振り返ることができる数少ない建物だと言えるのではないだろうか。

箕輪健伸 + ヨコハマ経済新聞編集部

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