横浜市歌を作詞した森鴎外(本名・森林太郎)は1884年(明治17年)、22歳の時に陸軍省派遣留学生として、横浜港から医学研究のためドイツ留学に出発した。また、代表作「舞姫」で、主人公のドイツ人女性との別れの地として横浜港が描かれるなど、文学者・鴎外にとっても縁の深い地でもある。
鴎外の日記などから、市歌制作プロジェクトは1909年3月21日 当時の横浜市長・三橋信方が依頼したことから始まったとされる。当時東京音楽学校(現・東京芸術大学)助教授だった南 能衛(みなみよしえ)が同年5・6月にかけ曲を作った後、鴎外が作詞をするという流れで制作が進んでいったという。
横浜を愛する人たちが「横浜市歌」を歌いつなぎ、未来に向かう新しい「横浜」を創造していこうと設立された「未来(あす)へつなぐ横浜市歌の会」の調べによると、南 能衛は徳島県出身の教育者で、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)を卒業後、徳島や和歌山で教員をしていた。その中で合唱指導の実績が認められたことから東京音楽学校に招かれ、音楽教育のための唱歌集編纂に携わったという。横浜市歌を作曲したのもこの頃のこと。唱歌集には作詞作曲者は明記されていないが、「村祭り」「村の鍛冶屋」は南の作曲と言われている。
完成した横浜市歌は、1909年(明治42年)7月1日に行われた「横浜港開港50周年記念祝祭」で初披露された。1日から、横浜はお祝いムード一色で、数々の記念行事が催された。
この100年前の「横浜港開港50周年」は、市章の「浜菱」が制定され、市民の寄付による開港記念横浜会館(現・横浜市開港記念会館・ジャックの塔)の建設が計画されるなど、現在の横浜の「象徴」がさまざまに創造された節目でもあった。
神奈川近代文学館で「森鴎外展」-横浜市歌の合唱コンサートも(ヨコハマ経済新聞)
明治の末期に当時の文豪の手を経て世に出た横浜市歌。100年近い時を経たこの歌に、新たな命を吹き込んだのは、横浜市金沢区に生まれ育った作曲家・ミュージシャンの中村裕介さんだ。
2002年、京浜急行・能見台駅にほど近い中村さんが代表を務める「ウォーターカラースタジオ」で、横浜市歌のブルースバージョンは生まれた。ギターを手に歌詞を眺めているうち「ブルースになるのでは?」とひらめき、30分ほどで新しいメロディーを書き上げたという。
勢いで曲はできたものの「親・子・孫の3世代以上親しまれている歌に、新しいメロディーをつけるなんておこがましいことをしていいのか?」と中村さんは、実際に人前で演奏するまで葛藤した。
2003年、元町商店街主催のストリート・ライブの折、初めて市歌のブルースバージョンを公の場で披露した。その演奏直後、品のいい年配女性に声をかけられた。「今の歌、横浜の市歌ですか?」。
豪放な雰囲気とは裏腹に、聴衆の反応に敏感な中村さんは「伝統ある歌に勝手なメロディーをつけ、抗議されるのか?」と身構えたという。だが、その女性は「覚えやすくて、わたし好きですよ」という言葉を中村さんに贈ってくれた。「あの言葉で、気持ちが楽になり、ブルースバージョンを歌ってもいいんだと吹っ切れました」。その後、横浜市役所本庁舎のエレベーター内で流されるなど、カジュアルでリラックスした「ブルースバージョン」の魅力は広がっていった。
ベイブリッジ・スカイウォークで「横浜市歌100周年記念ライブ」(ヨコハマ経済新聞)
本牧ふ頭で恒例「シンボルタワー祭り」-中村裕介さんライブも(ヨコハマ経済新聞)
中村さんのブルースバージョンに出会い、音楽を通じて横浜に地域のつながりを取り戻す活動を始めたサラリーマンもいる。
キリンビールに勤務する内田圭介さんは、山口県・下関市の出身。横浜・青葉区に居を構え、子どもたちの通う小学校を通じて地域のネットワークを広げてきた。忙しい仕事の傍ら、おやじの会、青少年指導員などに主体的にかかわり「子どもたちのふるさと・横浜」を少しでも住みやすく、楽しいまちにするため活動してきたという。
そんな内田さんは今、「未来(あす)へつなぐ横浜市歌の会」の中心メンバーとして活動している。ただ、5年前に長男の小学校卒業式で横浜市歌を初めて耳にした時には「ピンとこなかった」という。
転機は08年夏。横浜市立大学が横浜ランドマークタワーで実施したエクステンション講座「ヨコハマ・ブルース・ワークショップ2008」で講師だった中村さんに出会った。生演奏とほんの少しのアルコールを交えつつ、ブルースの歴史について語る中村さん。
受講生への飲料提供のため会場にいた内田さんは「横浜市歌ブルースバージョン」をそこで聞き「カッコいいなあ」とほれ込み、すぐにCDも購入した。
同時期、地元・荏子田小学校で地域ぐるみで参加できるイベントを企画していた内田さんは「歌の力」を実感する体験をした。イベント後に30人ほどが参加した懇親会で、誰ともなく出身校の校歌や応援歌を幼少時の思い出とともに歌い、お互いの理解を深めあう場を共有したという。
「歌は、人をつなぐことができる。横浜には100年の歴史を持つ横浜市歌があるのだから、この曲をみんなで共有し大切に歌い継いでいけば、世代を超えて住民をつなぐことができるのではないか」という思いが内田さんの中に湧き上がった。正調が難しければ、ブルースバージョンでもいい。
その思いは、中村さんの協力を得て昨年末、荏子田小学校で行われた「横浜市歌ワークショップ」に結実した。荏子田小の校歌、正調の横浜市歌、さらに市歌のブルースバージョンの3曲を子どもも大人も思い切り歌ったワークショップは大好評だった。
内田さんは「この仕組みを横浜市民全体に広げたい。横浜市歌をコミュニケーションツールとしていきたい」という新たな目標を得て、思いを同じにする人たちを募り「未来(あす)へつなぐ横浜市歌の会」(会長・鈴木信晴霧笛楼店主)を2009年1月に立ち上げた。
これまでに中村さんらとともに「鶴見区役所職員向けワークショップ」「横浜ベイブリッジ・スカイウォークでの市歌ライブ」(3月)「古民家・横溝屋敷での市歌ライブ」(5月)など次々に企画を実現してきた。
同会は、横浜市歌を歌うワークショップやライブを「市民がつながる場」としてとらえ「この横浜に まさるあらめや!と、市民自身が誇りを持って言える地域づくりに貢献していきたい」(内田さん)としている。
また、ヨコハマ・ブルース・ワークショップは、音楽を通して語られる歴史や、受講者とのセッションも好評で、エクステンション講座終了後も街に出て続いている。中村さんともう一人の講師である川勝陽一さんは、横浜市歌はもちろん、講座で取り上げられた曲を中心にCDも制作している。
ブルースバージョンが「大人」向けなら、市歌を「子ども主体で楽しんじゃおう」と活動するグループもある。
8月7~9日、大桟橋ホール・横浜開港記念会館で「こどものまちminicityEXPO」を開催するNPO法人「ミニシティ・プラス」では、小中学生有志が横浜市歌「ヒップホップバージョン」に挑戦している。
「ミニシティ・プラス」は、選挙権のない19歳以下の子どもたちだけで「仮想のまち」をつくり、仕事体験や社会の仕組みを遊びながら学ぶイベントを展開するNPO法人。
市歌をアップテンポにしたうえ、新たな旋律を書き加えたのは、人気ユニット「羞恥心」の楽曲などで編曲を担当する作曲家の岩室晶子さん(都筑区在住)。新たなメロディーには、子どもたちが創作した歌詞がつけ加えられ、100年前の文豪・森鴎外と2009年の子どもたちの言葉が、時を越えてコラボレーションしている歌に仕上がった。「こどものまちminicityEXPO」実行委員でもある岩室さんは「100年前の曲に、子どもたち自身が言葉をいれることで身近になります。歌詞づくりやダンスを通して自分たちのものとして取り込む、ということが大切です」と話す。
先日中区内で行った練習には、小学生から大学1年生までが参加し、演出・振付家の北山愛さんと杉本智孝さんの指導の下、スピーディなダンスを懸命に繰り返し練習した。子どもたちは初披露の場を7月23日、「開国博Y150 ヒルサイドエリア」内にある「つながりのステージと」定め、歌と踊りにさらに磨きをかけていく。
横浜市歌「ヒップホップバージョン」は、CDとDVDで発売も予定している。
開港150周年事業で「こどものまちEXPO」―こども世界会議も(ヨコハマ経済新聞)
「市歌」の誕生日となる7月1日。先述した「未来(あす)へつなぐ横浜市歌の会」などは”バースデーパーティー”として「ヨコハマ・ブルース・ワークショップ 横濱市歌紀寿祝祭(前祭)」(1日19時開演)「横浜市歌制定100年を祝う! 横濱市歌紀寿祝祭(本祭)」(3日19時開演)の2つのイベントを開く。
「紀寿」は「100歳」のお祝いのこと。1日はあかいくつ劇場(横浜市中区山下町、横浜人形の家4階)、3日は横浜市開港記念会館が会場だ。
中村さんは「未曾有の不況」といわれ、地域経済が疲弊し、自殺や失業の増加する昨今を、横浜で戦後を生き抜いてきた母親たちの苦難と比してこう言う。「関東大震災では2万数千人に上る死者、横浜大空襲では1万人に上る死者を出すなど、横浜は2度の壊滅状態を経験しながらも、オレの親たちも含む普通の市民の頑張りで復活してきた。市歌を歌う場でつながりを作ることを通して、今個々人が抱えている苦しさを受け止めることのできるコミュニティ作りを目指したい」。
小・中学校を横浜で過ごした人ならたいてい歌うことのできるという「横浜市歌」。思い出を懐かしむ人はもちろん、「まだ聞いたことがない」という新顔のハマッ子も「市歌100歳」を機に、聴き、歌ってみてはどうだろうか。横浜への愛着を深める新たなつながりが生まれるかもしれない。
■横浜市歌の歌詞
わが日の本は島国よ (わがひのもとはしまぐによ)
朝日かがよう海に (あさひかがよううみに)
連りそばだつ島々なれば (つらなりそばだつしまじまなれば)
あらゆる国より舟こそ通え (あらゆるくによりふねこそかよえ)
されば港の数多かれど (さればみなとのかずおおかれど)
この横浜にまさるあらめや (このよこはまにまさるあらめや)
むかし思えば とま屋の煙 (むかしおもえばとまやのけむり)
ちらりほらりと立てりしところ (ちらりほらりとたてりしところ)
今はもも舟もも千舟 (いまはももふねももちふね)
泊るところぞ見よや (とまるところぞみよや)
果なく栄えて行くらんみ代を (はてなくさかえてゆくらんみよを)
飾る宝も入りくる港 (かざるたからもいりくるみなと)
中山里歩 + ヨコハマ経済新聞編集部