今年4月1日、横浜・山手町、外国人居留地として異国情緒溢れる街並みが続く丘の上に、横浜スカーフの老舗、椎野正兵衛商店のアトリエ本店がオープンした。明るく落ち着いた店内には、「S・SHOBEY」のブランド名が記されたスカーフ、ネクタイ、扇子、傘が並ぶ。純国産のシルクを素材に、その風合いを最大限に活かすデザインと加工を施す。なかでも人気の品は、世界でもこの店でしか扱っていない最高級品種「はくぎん」を使ったもの。その名のとおり、白銀のような美しい光沢を放ち、雲のように軽く、肌触りは驚くほど滑らかだ。
その美しさが認められつつも、製造に手間がかかるため業界から忘れられていた品種「はくぎん」の復活とともに、閉鎖していた老舗の再興を果たしたのは、創業者の椎野正兵衛から4代目(社長としては3代目)にあたる椎野秀聰さん。「日本のモノづくりへのこだわりや凄さは、(他国に比べて)2倍や3倍という比ではないと思います。かつて、ヨーロッパのモードの世界に大きな影響を与えた日本のモノづくりの力を取り戻し、再び世界に向けて発信していきたい」。
椎野正兵衛商店 「S・SHOBEY」横浜の歴史はシルク産業発展の歴史でもある。1859年の横浜開港とともに、江戸幕府は御用商人、加太八兵衛に横浜で呉服店を設立することを要請。椎野正兵衛は手代として八兵衛を手助けし、5年後、その店を26歳の若さで譲り受けた。正兵衛は、日本の輸出の主要品目が生糸であることに着目し、絹織物商としての事業を開始。日本の絹の伝統美と西洋の感性を製品に取り入れた「和魂洋才」のモノづくりに取り組んだ。『S.SHOBEY SILK STORE』と当時珍しい英文字の看板を掲げ、「S・SHOBEY」という日本初の服飾ブランドを創設。ハンカチやマフラー、ネクタイなどを販売、国内外から注目を集めた。1873年にはウィーン万国博覧会に国費で行き、西洋文化に触れ、シルクの需要を見抜いた正兵衛は、帰国後いち早くスカーフの原型となるものを製品化する。その後もフィラデルフィア万博、パリ万博、メルボルン万博に製品を出展。数々の賞を受賞し、欧米の貴婦人を夢中にさせた。
1900年、正兵衛が61歳でこの世を去ると、二代目正兵衛と義弟の賢三がその後を継いだ。しかし関東大震災で本店や工場が焼失、再建を図るも、今度は2度の大戦が追い討ちをかける。1945年、横浜大空襲で店を失い、二代目正兵衛は老舗の伝統に幕を下ろす決断をした。
しかし二代目正兵衛が店を畳んだ真の理由は別にあると椎野さんは言う。「当時、横浜から輸出されたシルク製品の品質が悪く、リヨンやミラノの商工会議所からの抗議の手紙が横浜に来ていました。シルク産業が巨大になるにつれ、安く不良品を作って売り飛ばし儲けようという輩が増えたのです。モノづくりの堕落と、業界の腐敗。これ以上続けても日本人の面汚しになるだけだからやめたのだと私は聞いています」。
三代目にあたる父は、店のことをひと言も話さなかったという。「シルクの商売をしていたことは叔母から聞いてはいましたが、先代がどんな人だったのかはいまひとつわからないままでしたね」。やがて椎野さんは音響機器メーカー「VESTAX」を創業。従業員数十人でありながら、他社の追随を許さない高品質の製品をつくり、ロックグループ「エアロスミス」をはじめ、数多くの有名ミュージシャンを顧客に抱える一流企業へと成長させた。世界中の若者に支持され、大手メーカーをも下請けに使う同社を、誰も日本の会社だとは思わなかったという。「中小企業と大企業という、大小だけで分ける時代は終わる。恐竜が絶滅したように、商売の大きさに頼ってモノづくりの大切さを忘れると、いつか業界そのものが死んでしまいます。これからは個性ある多様な企業が世界を引っ張っていく、そんな時代になっていくのではないでしょうか」。
VESTAXそんな椎野さんは時折、欧米の博物館や資料館に行って初代正兵衛について調べていたという。「いつか横浜に戻ってシルクの商売をしたいという想いがありました。先代を調べれば調べるほど不思議な人だったことがわかり、こりゃ自分が変人なのも血筋だと思いましたね。真っ赤なシルクハットをかぶり、黙々としたモノづくりで世界を席巻した粋な人。その本当の凄さは家族でも知らない。最高ですね」。
ある日、友人からの電話があり、NHKの「モードにおけるジャポニズム」という特集番組で、正兵衛が紹介されているという知らせがあった。その番組は、正兵衛をはじめとした当時の日本の衣料品が欧米のモードの世界に多大な影響を与えていたことを教えてくれた。先代の偉大な取り組みを知り、椎野さんはこう考えたという。「日本の伝統の素晴らしい技術や技能をもって、もう一度世界をうならせるものを作ってみたい」。こうして椎野さんは横浜スカーフの源流となった老舗の復興へと取り組み始めたのだ。
老舗復興の決意はしたものの、当時の椎野さんはシルクに関して素人同然。日本には1500種類もの蚕があり、戦争のときには疎開までさせて品種を守ってきた長い歴史と文化、技術の蓄積がある。どの蚕を使えばいいのか悩んだ椎野さんは、財団法人大日本蚕糸会に行き、単刀直入に「日本で一番いい糸はなんですか」と聞いた。すると「はくぎんだろう」と答えが返ってきた。「はくぎん」とは、蚕品種研究の第一人者、独立行政法人農業生物資源研究所の農学博士、山本俊雄さんが10年の歳月をかけて開発した品種。通常の糸の半分の約1.6デニールという世界でいちばん細い糸を吐く蚕。日本人の髪の毛が平均50デニールの太さであることを考えると、いかに細いかがわかる。糸を持ってみても、触っている感覚を全く感じないぐらいの細さなのだ。「はくぎん」ではこの極細の糸を撚り合わせて14デニールの太さにして使用する。海外の一流ブランド品では日本製の絹を使用するが、21デニールの太さのものをさらに2、3本撚りあわせて織るのが普通であり、キメの細かさは段違いだ。
財団法人大日本蚕糸会 独立行政法人農業生物資源研究所しかし問題は、糸が細いため、糸を取り出す作業や織る作業に通常より時間も手間もかかること。採れる量も不安定で、扱いもデリケート。糸の美しさは認められていたものの、とても大量生産に向いているものではないと敬遠され、実際に「はくぎん」で織物を作っている人は皆無だった。業界を調べると、高齢化のため、「はくぎん」を取り扱える技術や技能を持つ工場もあと数年で閉鎖に追い込まれるような状況だと知る。「本当にいいモノを作るには、今が最後のチャンスだ」。そう思った椎野さんに迷いの心はなかった。
椎野さんは事業を後継者に任せて「VESTAX」を退職、その退職金を元手に「はくぎん」の糸を使ったシルク製品の製造に取り組み始めた。しかし、完成品を見てみると素材の良さを最大限に活かしきれていないことに気づいたという。「実業の世界は生産が動き出すまで5年、売れるようになるのにもう5年かかり、10年は死ぬ物狂いでやる必要がある。全くのゼロから新しいモノをつくるので手本がなく、長い間試行錯誤の連続でした」。
分野は違えど、高品質のモノづくりに取り組んできた椎野さんは、直感でモノの良し悪しがわかる。しかし具体的にどこが間違っているのか見つけ出すのは困難だった。そこで、椎野は専門家の目で見てほしいとテキスタイル研究家であり作家でもある平澤エミ子さんに相談。2002年、横浜赤レンガ倉庫に出店する際に知り合ってから、たびたび事業のことを熱く話す間柄だった。「最初はちょっとだけお手伝いするつもりが、どんどん深みにはまってしまいましたね」。織物づくりの知識と経験があるとはいえ、目指すは前人未到のモノづくり。店の顧問になった平澤さんは日本中の産地や工場を駆け回り、職人たちに実際に会ってリサーチすることから始めた。
平澤さんは、それぞれの土地での仕事の特徴を聞き、なくなっていく工場や機械を写真とともに記録していった。当初は職人たちから「マルサの女が来た」と言われ嫌われたが、「職人たちには、みんな心の通った仕事をしたいという想いがきっとあるはず」と思い説得を続けた。やがて椎野さん、平澤さんのモノづくりに賭ける想いが伝わると、みな協力的になっていった。職人たちからは、「もう一度やってみようと思ったのは初めてだ」と言われたという。これも二人の人柄が成せる技だろう。「普通なら知るのに10年かかる知識を、わずか1年半で知ることができました。業界のしがらみのない私たちだからできたことです」。(平澤)
撚り合わせた糸ではなく、2、3本を引き揃えて針に通して織る北陸の伝統的な織り方、羽二重の技術を使うことで、より柔らかくしなやかな織物をつくることが可能になった。出来上がった織物は、それまでのものとはまったく違う輝きを放っていた。「日本の製糸の技術は郡を抜いて世界一ですが、その中でも『はくぎん』の特徴を生かして織ったものはレベルが違います。時代とともに、絹は太くて均一な大量生産しやすいもの、つまり人工物に近いものが主流になっていったのですが、この織物はそれとは全く逆の発想。自然の脅威と人の技術を活かし、消費財ではなく、本当に価値あるものをつくる、どこにも真似できないモノづくりです」。(平澤)
平澤さんは自身のことを、椎野さんの言葉を絹の世界の技術に翻訳した「糸偏(いとへん)の通訳」だと称する。「椎野社長は先入観を持たずに物事の本質をつかむ抜群の感性を持っている稀有な人。その社長の言葉を、私が絹の世界を知ることで、職人たちに通訳できたからこそ、この織物をつくることができたのだと表います」。
デザインは古き良き時代の筆絵を復活させたものに加え、若い人に身に着けてもらうために色を今風に変えた。「産地の特性を活かし、椎野ブランドの色を出すことを考えています。生地の特徴に合った染色方法を一つ一つ選んでいるのは世界でもウチだけ。絹は蚕の命なのだから、それに見合った美しいモノづくり、美しい商売をしていきたいですね」(平澤)。アトリエ本店には製造工程を説明した写真も置かれ、そのモノづくりへのこだわりが伝わるようになっている。まだ売上げは少ないが、そのモノづくりへのこだわりはファンを確実に増やしている。また、横浜赤レンガ店はこの4月から「ヨコハマズベスト2」として形を変えて一部店舗を残すことになった。レース専門店「近沢レース」、フランス料理店「霧笛楼」、洋品店「信濃屋」、中華食材「源豊行」、洋菓子「有明製菓」、横浜スカーフ「S・SYOBEY」の横浜の名店6店による共同出店で、観光客向けの土産物商品を中心に販売している。
横浜赤レンガ倉庫1号館 Hall & Space椎野さんは事業を振り返ってこう語る。「ブランドの復権に2億5000万円くらい使いましたが、自分のなかでは10億円くらいの価値があったと思っているんです。大切な人たちと出会い、モノづくりの確かさを確認できたのが何よりの幸せです。この事業で自分が成功しようなんて思っていないんです。障害物競走のようなもので、最初に網を上げた人は出られず、次の人が先に出て一番になる。自分に続いてこの網に入ってくる若者が出てくるのを待っているんです」。
モノづくりの誇りを取り戻し、半世紀を経て伝統あるブランドの復権を果たした椎野正兵衛商店。日本が世界に誇る蚕の文化、絹の精製、織物の技術が合わさり、世界で誰にも真似できない商品が生まれた。かつて横浜のスカーフの品質は欧米に衝撃をもたらしたが、モノづくりの心を取り戻した日本の絹製品の素晴らしさは再び世界を席巻する可能性を秘めている。「MADA IN YOKOHAMA」の文字が世界のトップブランドに返り咲くのは、そう遠い日ではないのではないだろうか。
(編集協力 株式会社エスアイ・エディト)
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