戦後間もない頃から、闇市として賑わった野毛界隈。だが、多くの人が集い、さまざまな文化が生まれた野毛も、近年はそうした活気が失われつつあるという。とりわけ、昨年のMM線開通に伴う東急東横線桜木町駅の廃駅で、野毛への人の流れはさらに減少した。
そんな野毛から、ちょっと風変わりな雑誌が創刊された。その名も「NGT」……。雑誌と銘打ちながら、この「NGT」には何と記事が全く掲載されていない。文字原稿が1文字もなく、全て野毛界隈の風景を撮影した写真中心のビジュアルのみ。当然、その写真にも何の説明もなく、野毛を訪れたことのない人にとっては全く何のことやらわからないに違いない。かといって写真集というわけでもなく、あくまでも「雑誌」。さらに、この雑誌には表紙もない。単語帳のようにリングで綴じているため、見るのをやめた時に一番上に来るページが「表紙」なのだという。編集者の独自の視点で切り取った野毛の風景の断片をアトランダムに束ねただけ、と言った方がいいかもしれない。何もかもが「規格外」のこの雑誌、ここまで説明しても恐らく具体的なイメージが浮かばないだろう。もう実際に手に取ってご覧になっていただくしかないのだが、定価の方も雑誌としては規格外の2,500円なのである。しかも、立ち読みができないようパッケージングされている。中身がわからない雑誌に2,500円も出すというのは、一種の「賭け」のようなものである。
「決して、奇をてらっているわけではないんです。雑誌というと、表紙があってグラビアがあって、記事があるといったフォーマットがお約束ですが、そうじゃない形態を模索していたら、こんな感じになっちゃったんです。そもそも、我々のような小資本が大出版社の発行する雑誌と同じようなものを出してもしょうがない」と、仕掛け人である穂積由紀夫さんは話す。穂積さんの本業はグラフィックデザイナー。だからビジュアル優先の誌面構成になったのかと言えば、そういうわけでもないらしい。「当初は記事も掲載する予定で、原稿を集めたんです。しかし原稿を執筆してもらった人たちには悪いんだけど、ピンと来るものがなかった。これだけインターネットが普及している現在、そこで拾えるような客観情報を『NGT』で取り上げても意味がない。小さなメディアであるからこそ主観に満ちた偏った情報や大きなメディアが見過ごしてしまう情報、野毛という街にいなければ発見できない何かを扱えたらと考えていました。それに形態は変わっているのに掲載されているのが普通の記事だったら、それこそ奇をてらっているだけ。今、思いついたんだけど、創刊号のテーマは、新雑誌の顔見せという意味で『野毛の束見本』(笑)」。
さらにビジュアルのみ、という創刊号の形態は今後も踏襲されるわけではない。その都度、テーマに応じて形態も変わっていくのだという。ただ確実に言えるのは、間違っても「普通の雑誌」にはならないということだ。ちなみに次号の特集は野毛の飲食店ガイドということだが、これも一筋縄の内容ではいかないらしい。「次号はレストランのメニューになる予定です。野毛の街全体を1つのレストランに見立て、独断と偏見で選んだ8店の料理をピックアップしてメニュー形式で掲載していく。1冊全体を通して読めば、フルコースの料理のメニューになるわけです」。
「NGT」のもうひとりの仕掛け人が、野毛の沖縄居酒屋「波之上」を営む親川久仁子さんである。穂積氏はそこへ客として通っていた。その意味では、「NGT」は波之上という居酒屋で生まれたと言っていい。昭和23年に野毛で開店した波之上は、終戦後の興隆から現在の衰退まで野毛の栄枯盛衰を見続けてきた存在だ。もともとは親川さんの母親が経営していたが、母親の死去に伴い6年前に滞在先のベルギーから帰国して経営を引き継ぎ、現在に至っている。
創業間もない頃の波之上は、左翼関係者たちのサロン的な存在だったという。「横浜市長や社会党委員長を務めた飛鳥田一雄さんや神奈川県知事だった長洲一二さんも波之上の常連で連夜、激論を戦わせていた」。もちろん、そうした文化人や有識者だけでなく野毛の興隆に伴い、さまざまな層の人たちが波之上に集まり、ある種濃密な関係を形成した。そうした交流は産経新聞の連載として約1年半にわたり紹介され、それが好評を呼んで『野毛ストーリー』という1冊の本を生み出すことになる。
昭和61年に発行された『野毛ストーリー』は、言ってみれば野毛で生活する人が語る「野毛の歴史の本」だ。事実、野毛で生活している人のナマの声を収録したものだけに、今となっては非常に貴重な記録である。当時、店主だった親川さんの母親と、来店客だった古くからの野毛在住者や新聞社の社員らが意気投合して発行されたもの。今風に言えば、店主と来店客とのコラボレーションである。「その意味では、『NGT』が生まれる素地のようなものは伝統的にあったのよね(笑)」と、親川さんは笑う。
親川さんはこれまで、野毛の街の賑わいを取り戻すために試行錯誤を繰り返してきた。2年前に始めた、「野毛飲兵衛ラリー」というはしご酒の企画もそのひとつ。野毛札という 3,500円のクーポン券を購入し、1ドリンク+一品の飲食を5軒はしごできるというものだ。また、野毛の魅力を地元から発信する情報誌「野毛通信」を発行したこともある。同誌は編集委員を来店客がボランティアで務め、執筆者も野毛に直接かかわってきた人ばかりというものだったが、1号限りで休刊となった。そして、その「野毛通信」の復刊を模索していた親川さんの前に現れたのが、前出の穂積さんだった。昨年末のことである。
野毛飲兵衛ラリー 野毛でハシゴ酒「第5回野毛飲兵衛ラリー」開催 これを読めば誰でも野毛通? 「野毛通信」創刊「波之上に通うようになって3年なんですが、そもそもは飲兵衛ラリーの作業を手伝ったことで親川さんと意気投合したんです。と言いながらも、よくケンカもするんですけど(笑)」と、穂積さんは話す。ただ、「野毛通信」と同じようなものはやりたくなかったという。「もともと、僕は野毛どころか横浜の住民でもない。だから野毛自体には、それほど思い入れはないんです。だから、野毛を盛り上げることが目的で『NGT』を出すわけではない。とはいえ、居酒屋での交流によって何かが生まれるという波之上独特の雰囲気は継承したい。その意味で、『野毛通信』のアルファベット表記の頭文字を取って、誌名を『NGT』としたんです」(穂積さん)。
穂積さんにしてみれば、野毛を題材にした雑誌を出すことが重要なのではなく、波之上、もっと言えば野毛で何か面白いことやっているという事実が重要なのだという。だから、今後「NGT」で扱う内容も、必ずしも野毛に関するものだけではないのだとか。「とにかく『NGT』では、参加者のやりたいことや思いついたアイデアをとことん追求したい。そして、こんな面白いことをやっている連中が野毛にいる、という評判になれば、結果的に野毛の活性化につながるのでは」(穂積さん)。一方の親川さんも「そういう穂積さんの考え方には、私も賛成です。もちろん全面的に穂積さんと同じ考えではないし、私自身の思いというものもあるけれど、いろんな人が野毛にいて誰にも邪魔されずに、それぞれが思い思いのことをやるというのが大事なのよね」。
同じ雑誌にかかわりながらも、それぞれがそれぞれの思いを持っている。穂積さんが「野毛通信社の代表取締役です(笑)」と紹介する斉藤敏夫さんも、そんなひとりだ。斉藤さんは20年来の波之上の常連でもある。「20年前だって野毛は凋落傾向にあったけれど、それでも今に比べれば賑やかだったですね。私は普通のサラリーマンだったし雑誌の仕事にも携わったことがないんで、正直何ができるのかわからないけど面白そうだし、野毛の活性化につながればと思ってかかわってるんですけどね。まあ、ただの酔っ払いですよ(笑)」(斉藤さん)。
「波之上という場所があったからこそ、普通なら知り合う機会のない、ずっと上の世代の斉藤さんのような人と知り合うことができた。この出会いを大切にして、雑誌づくりに生かしていきたいですね」と穂積さんは言う。考え方やスタンスはそれぞれだけれど、彼らに共通しているのは、かつての野毛が持っていた「精神性」のようなものを取り戻したいという思いではないだろうか。
かつての野毛が持っていた精神性――それは野毛が変化していく中で失ったものでもある。みなとみらいの再開発や東急東横線桜木町駅の廃駅などで、ダメージを受けている野毛だが、その凋落は昭和39年の東京オリンピックからすでに始まっていたという。ここで野毛の歴史を振り返ってみたい。
野毛のある商工会関係者によれば、もともと下町だった野毛は第二次世界大戦後、闇市として発展したのだという。近隣の馬車道や伊勢佐木町は米軍に接収されたこともあり、野毛は当時の横浜の賑わいの中心だったという。「野毛には露天商や故売屋などが集まり、国内外の物資や文化で溢れていた。また職安もあったので、日雇いの労務者も数多くいた。とにかく、ありとあらゆる層の人たちがいて活況を呈していたんです」。また、桜木町駅が当時の国鉄の京浜東北線の始発だったことも繁華街として栄えた大きな要因だった。「要はターミナル駅だったわけです。当時、県庁や市役所、松坂屋に勤務する人たちは桜木町駅まで徒歩で移動するしかなかった。そうなると、その途中の野毛で一杯やっていこうか、ということになるじゃないですか。当時の野毛の飲食店は黙っていても客が入るような状況だった。県庁や市役所の更衣室には、職員たちが野毛の飲食店情報を記した紙が貼ってあったという逸話が残っているぐらいですから」。だが、京浜東北線が根岸線として桜木町駅よりも先の磯子駅まで延長されたことによって、状況は一変する。ターミナル駅ではなくなったのだ。これが野毛の集客力が低下する第一歩だった。
それと同時期に野毛を襲ったのは、東京オリンピックだった。前出の親川さんは「行政は、この時点ですでに野毛という街を見捨てるつもりだったのだと思う」と言う。オリンピックに際し景観を損ねるとして、海外からの渡航者の目に触れないよう、労務者と大岡川の水上にあった彼らの住居を現在の寿町に移転させた。また、闇市の名残りであった露天商も、これを機に一掃された。猥雑な活気に溢れた野毛の魅力が一気に失われたわけである。さらに高度成長期で国民生活が豊かになる中で、下町という庶民文化を象徴する野毛の街の様相は、当時の国民のライフスタイルにそぐわなかったということもあっただろう。ここから、野毛の本格的な衰退が始まったということだ。
その後、みなとみらいの再開発、そして昨年の東急東横線桜木町駅の廃駅で野毛地域は大きな影響を受けた。もちろん、その間にも活性化策として昭和61年から現在まで続く「野毛の大道芸まつり」を開催したり、親川さんが行っている「飲兵衛ラリー」など多くの取り組みがあった。だが前出の関係者が言うには、そうした取り組みだけでは野毛全体を活性化させるには至らなかったという。「もちろん野毛の大道芸を全国的に認知させた、街づくり会の諸先輩方々には敬意を表します。ただ、大道芸人を海外から呼んで年1回か2回の一過性のイベントを開催するというだけでは、活性化には不十分です。大道芸の街だと言うからには1年365日、野毛を訪れれば常に大道芸を見ることができるという状況でないと、恒常的に人が集まらないでしょう。そうした反省から、次回の大道芸のあり方については見直していくようです」。また、「飲兵衛ラリー」についても活性化への取り組みとして賛同しながらも、閉じられた人間関係の中でなく、もっと多くの地元の人を巻き込んでやって欲しい、と苦言を呈する。
野毛大道芸 13ヶ国より300人出演「第30回野毛大道芸」開催野毛に元気がなくなってきた要因には前述した状況的なものも大きいが、野毛の商店主たちの意識にも問題があるとくだんの関係者はいう。「もう30年以上も前から衰退の兆しがあったのにもかかわらず、我々より上の世代の商店主たちは、根本的な活性化策を講じてこなかった。なまじっか野毛のいい時代を知っているので、危機感に乏しく後手後手に回ってしまったんです。また、街づくり会の活動にしても、そうした連中が牛耳ってしまい、若い世代や女性の意見を採り入れなかったために時代に取り残されてしまった」。
野毛公式ホームページ時代の流れの中で、野毛が失ってしまった精神性とは何なのか? それはあらゆる層の人たちが野毛に集い、何かを生み出そうとする猥雑なパワーのようなものなのだろう。6年前に帰国した親川さんは当時、久しぶりの野毛の街を目の当たりにしてショックを受けたことがあるという。「野毛というか横浜というのは、開国によって外国人を受け入れるために人工的に作られた街。そんな街だから、海外からも日本全国からもいろんな人たちが集まってきた場所なの。だから、そこにはマジョリティはなくて、マイノリティの集まりでしかなかった。特に、野毛はその象徴のような街だった。ところが久しぶりに帰国してみたら、横浜は東京を意識しない日本で唯一の街だったはずなのに、東京志向の見事に均一化された街に成り果てていた。そして、行政の対応ひとつ取ってみても、何かと言うとひとつにまとまることを強要して少数派を圧殺しようとする。まとまらないのが野毛のいいところだったのに」と憤る。
現在、野毛をめぐる状況は混沌としている。野毛を活性化したいという総論では誰しも賛成なのだが、それぞれの方策という各論レベルでは意見が対立しているのが実情。穂積さんは「僕らがこうした雑誌を作ることに関して、野毛の一部の人たちが『スタンドプレーだ!』と批判するのは結構だし、もしかしたら批判されて当然のことをやっていることだってあるかもしれない。だけど、存在を否定するのだけはやめて欲しい。もし、僕らのやっていることに不満があれば、僕らとは違うやり方で違うことをやればいい」と話す。意見や考え方は、それぞれ違って当然。街に集う人々が、自分なりのやり方でやりたいことをやればいい。そうした行動の連鎖こそが、自ずと街を活性化する。ひとつにまとまる必要なんてないのだ。なぜなら、それが「野毛スタイル」なのだから。そんなことを「NGT」は、誌面を通じて訴えようとしているのではないか。
「闇市」精神がルーツ? 横浜の一大イベント「野毛大道芸」事情 野毛界隈は情報交差点!? 飲み屋で育まれる電脳解放区構想※「NGT」は波之上(tel:045-241-9069、17:00以降)で購入できるほか、有隣堂・横浜市内4ヶ店、BankART1929でも購入できる。
有隣堂 BankART1929牧隆文 + ヨコハマ経済新聞編集部