横浜のベイエリアは、多様な顔を持つ街が連なって形成されている。アート&デザインの街・ポートサイド、巨大なターミナルである横浜駅、ショッピングやアメニティが充実しているみなとみらい、クリエイティブな拠点が続々登場する馬車道、格調高い歴史的建造物が並ぶ日本大通り、散歩やデートスポットとして人気の山下公園、異国情緒溢れる元町商店街、日本最大規模の食の街・中華街……一つのエリアにこれほど多様な街が混在しているのは世界でも珍しいのではないだろうか。そのベイエリアにさらなる賑わいを生み出すべく、2009年の横浜開港150周年に向けた新たな整備計画が進み、実行のフェーズへ移ろうとしている。その計画は、横浜市が推進しているクリエイティブシティ戦略、そのなかでも「ナショナルアートパーク構想」と呼ばれるものと密接に関わっている。では、横浜市ではどのような計画が練られているのだろうか。
クリエイティブシティを実現するために、横浜市が推進しているプロジェクトは4つある。(1)ナショナルアートパーク構想、(2)創造界隈、(3)映像文化都市、(4)横浜トリエンナーレがそれだ。ナショナルアートパーク構想は、クリエイティブシティ戦略を支える4本柱の1つと位置づけられている。とはいえ、これらの要素あるいはプロジェクトは明確に線引きできるものではない。それぞれの要素がうまく融合しあってこそ、創造都市への道が切り開かれる。すでに、BankART1929など都心部の歴史的建造物をアーティストやクリエイターの活動拠点として再生する創造界隈の取り組み、東京芸術大学大学院映像研究科の誘致、横浜トリエンナーレ2005の開催などが実行されてきた。
ではクリエイティブシティ戦略のなかでナショナルアートパーク構想はどのような役割を持つのだろうか。横浜市文化芸術都市創造事業本部でナショナルアートパーク構想の推進を担当する創造都市推進課長の田丸祐一氏は「横浜の未来を開く創造都市の臨海部におけるグランドデザインであると同時に、開港150周年に向けて市が取り組むべき戦略的プランです」と位置づけを示す。その狙いは、文化芸術をスプリングボードとして横浜らしさを生かしたまちづくり、創造的な産業の振興、観光力の強化につなげること。横浜市はその創造都市のモデルを臨海部で実践・提示することによって創造都市の取り組みを郊外部への展開を促進するとともに、世界に横浜の価値を発信していくナショナルプロジェクトとして国の参画を促す方針だ。
横浜市文化芸術都市創造事業本部ナショナルアートパーク構想の発想は、横浜市が2002年11月に立ち上がった「文化芸術・観光振興による都心部活性化検討委員会」における議論で生まれた。同委員会は、2004年1月に、創造性こそが都市の未来を拓くものと位置づけて文化芸術によって都心部の活性化を推進すべきだとの提言をまとめた。その後、有識者による「ナショナルアートパーク構想推進委員会」が組織され、委員による提言をもとに構想はより具体的なプランへと練り上げられていく予定だ。そして今年1月19日、構想の具体的な提言書が中田宏市長に提出された。
では、どこで何を実践することによってその目標が達成できるのだろうか。地域に関して提言では、6つの拠点地区(ヨコハマポートサイド軸、みなとみらい21地区キング軸、みなとみらい21地区クイーン軸、新港・馬車道軸、大さん橋・日本大通り軸、山下・中華街・元町軸)と3つの創造界隈(馬車道、日本大通り、桜木町・野毛)を構想推進エリアとして掲げている。
中でも先導的に取り組むエリアとされるのが、ウォーターフロントの(1)象の鼻・大さん橋、(2)山下ふ頭、(3)馬車道駅周辺の3つの地区である。象の鼻・大さん橋地区は、象の鼻防波堤を復元するとともに、文化芸術活動を発信する拠点として形成する。また、ナショナルアートパーク構想に位置づけられた拠点を水上交通で結ぶターミナルの整備も検討テーマだ。2つ目の山下ふ頭地区は、倉庫の空間を生かしてスタジオを集積するなど、創造的産業の拠点として形成する。3つ目の馬車道駅周辺はアーティストやクリエイターが創作し発表し、滞在・居住する創造界隈の先導的拠点と位置づけられている。
都心部の中でも、ウォーターフロントを文化芸術の発信エリアとし、また市民や観光客が創造性に満ちた雰囲気を楽しめる場(アートパーク)とする。そんなイメージがウォーターフロントの未来像だ。ここで、なぜ、「ナショナル」がアートパークに冠せられているのかに触れておこう。ナショナルには2つの思いが込められている。1つは、港湾地区には国有地が多いこともあり、国の参加を促してナショナルプロジェクトとしたいという意図である。もう1つは、日本発のアートに象徴される創造力を横浜から世界に発信したいという想いである。
「提言書」では、その推進組織として「(仮称)クリエイティブシティ横浜」を平成18年度中に発足させることを打ち出し、この推進組織に、(1)映像産業の振興を担う産業振興部門、(2)プロジェクトのプロデュースを担当する文化芸術部門、(3)倉庫や空きオフィスの活用などを担当するまちづくり部門を設置して、ナショナルアートパーク構想にふさわしいプロジェクトを選定・推進していくことを提案している。
現時点で、推進組織のあり方や整備事業以外のプロジェクト(特にソフト面)は明確になっているわけではない。推進組織に関しては、18年度に民間企業への呼びかけ・協力を要請して、民間が参画しやすいプロジェクトのあり方を検討する。その結果を踏まえて、正式な推進組織を発足させ、民間の発想をベースに重点的に取り組むべきプロジェクトを選定する。これが、横浜市が現在描いているプランである。提言書は、横浜市の文化芸術都市創造事業本部のWebページで見ることができる。
ナショナルアートパーク構想では、地元はナショナルアートパーク構想にどのようにとらえ、どのような期待を抱いているのか。ナショナルアートパーク構想推進委員会のメンバーとして議論に参画してきた元町の老舗・近沢レース店代表取締役の近澤弘明氏に聞いた。
近沢レース近澤氏は、横濱まちづくり倶楽部の副会長として横浜のまちづくりに取り組んできた。「もともと横浜市は街づくりに熱心な行政です。昔はその潤沢な予算と強い指導力についていけばよかったが、今は市と民間が一緒になってプランを考える時代。そこで4年前に横濱まちづくり倶楽部をつくり、地元の経営者や市民に加え、専門家や大学といった外部の知恵を取り入れてきました。横浜をアーティストやクリエイターが住む街にしようという計画は、横濱まちづくり倶楽部からも以前から提唱してきたことなんです」。
横濱まちづくり倶楽部では、なぜ街にアーティストやクリエイターが必要なのか。「都市間競争が激しくなり、横浜の中心部にも空きビルが増えてきています。お店も地元市民の生活に対して明らかにオーバーストアな状況であり、他の都市から移り住んでくる人や、横浜に来る観光客を増やさなければ商業が成り立たない。しかし人を呼ぶためには街に魅力がなければいけません。では街の魅力とは一体何か? それは街の景観や、そこに住む人の活力や、常に最先端のことにチャレンジしていく精神……言うなれば、“ヨコハマスタイル”とも呼ぶべき都市のイメージです」。
「街を歩けば視野に入ってくる建物や公共物のデザインはすごく大切。横浜らしい建物とは何か、デザインとは何か、建築家やデザイナーに問いを投げかけています。センスのないものを取り除いていくだけでは、街のデザインは良くならない。その街の顔となるような新しいデザイン、美しさのあるものを生み出し、人々の意識を変えていくことが必要です。それは、価値あるモノを創造できるクリエイティブな人がいなければできないこと。だから街にはアーティストやクリエイターが必要なんです」。創造的な人たちが街に住むことで、デザインコンシャスな建物やお洒落なカフェが増えていく。それが誘客へと結びつき、商業が活性化するという狙いだ。
そんな“ヨコハマスタイル”を象徴するような車が、先日完成した。横浜限定車「muetto(ムエット)」は、市内の製造業者、デザイナー、商業者、大学など20あまりの団体のコラボレーションによって生まれたスペシャリティーカー。近澤レース店は元町の老舗として「キタムラ」とともにプロジェクトに参加、オプションでつけられる専用グッズを制作した。元町のお洒落で落ち着いた雰囲気と合う、生活を愉しむ大人のための車に仕上がった。「次は、街の景観を彩るような洗練されたデザインのレンタサイクルを作りたいと思っているんですよ。東横線跡地も、単なる遊歩道ではなく、市民や観光客が利用できる自転車専用道ができるそうです。旧駅舎のプラットフォームは取り壊さずに、駅の雰囲気を残した展示会場として活用すれば他にはないユニークな空間になる。そういったアーティストやクリエイターと市民、観光客が集まり、コミュニティを育む場をつくっていきたいと思っています」。
横浜限定車「muetto」が完成発表 -元町コラボアイテムも hamawazaこうした“ヨコハマスタイル”とも呼ぶべき都市の魅力を生み出していくためのグランドデザインの一つが、ナショナルアートパーク構想だ。近澤氏は、ナショナルアートパーク構想を推進する組織について次のように指摘する。「推進組織はプロジェクトの取捨選択ができる組織でないといけない。推進組織にどういう権力を持たせ、どういうメンバーで運営していくのか、それを固めるのがこれからのキーポイントでしょう」。
横浜を世界に通用する都市にしたいと、目指すゴールは高い。「横浜の観光客は年間3,500万人。一方、大阪は1億人。横浜は観光客を4,000万人や5,000万人にするというような低い目標設定ではなく、1億、2億にする方法を考えていかなければいけない」。そのためには街をつくっていくクリエイティブな人たちが横浜にしっかりと根を張ることだと近澤氏は言う。「支店経済の状況では、コストパフォーマンスを重視すれば人は横浜から出て行ってしまう。本店や横浜発祥の店を作っていかなくてはならない。アーティストやクリエイターも同じで、メセナ的な発想で連れてきてもダメ。彼らに横浜を自分たちの街だと感じてもらうこと、そうすれば横浜は本当にクリエイティブな街になりますよ」。
ナショナルアートパーク構想の推進委員となっているもう1人の地元経営者、港横浜で港湾業を営む藤木企業の3代目・取締役副社長の藤木幸太氏にも話を聞いた。藤木氏は「みなとみらいの夜景は沖から見るのが一番美しい」と水上の視点から横浜の景観のすばらしさを説く。その景観を市民が楽しめるように、「横浜を東洋のベニスにしたい」というのが藤木氏の想いだ。
藤木グループ横浜は世界に開かれた海運の拠点として、2009年に開港150周年を迎える。日本の貿易・産業の発展に横浜が果たしてきた役割は大きい。だが、藤木氏によれば日本の港湾のバランスは悪いのだという。例えば、米国サンフランシスコのベイエリアは、市民が海辺を楽しむ場と海運・港湾業が事業を行う場とがバランスよく成長していると指摘する。横浜の都心部は陸と海の接点であり、陸の整備・活用に加えて、海や河川など水上の活用によって横浜のもつ魅力がさらに生かされるだろう。
ナショナルアートパーク構想の提言書にも、港という横浜の特徴を活かすアイデアが盛り込まれている。しかし、それは実際の水上交通のことを考えられたものではないと藤木氏は言う。「ポートサイドの護岸を整備するとは言うものの、船を接岸させるということは全く考えられていない。象の鼻地区に水上ターミナルを整備して水上交通ネットワークを形成するという案も、船でどことどこを結ぶのかという具体的なプランはないまま」。構想を描く文化芸術都市創造事業本部と、実際の港を管理している港湾局、今後はその両者がより一丸となって取り組まなければならないだろう。
藤木氏は、提言書にとらわれずに、自身で水上タクシーを実現したいとの熱い思いを抱いている。実際、ロイヤルウイングというクルージングレストランを運行する会社までつくってしまった藤木氏だが、水上タクシーを横浜のベイエリアはもちろん、東京まで走らせようというアイデアを練っている。「船での移動は天気に影響されると言う意見もあります。しかし、船に乗るということはそれだけで心躍る体験なんです。それは電車やバスなど他の移動手段では絶対に味わえないもの。その船が使える強みを、横浜はもっと活かしていくべきなんです」。空港から横浜までを船で一直線に結ぶ、藤木氏はそんな構想も抱いている。
ロイヤルウイングしかし、まだまだ船の魅力を知る人は少ないのが現状。そこで藤木氏は新山下のレストラン「タイクーン」で来店客を対象にした無料クルーズを始め、気軽に船や港を楽しめる機会を提供しているという。今年の5月には、港で実際に船の魅力を体感できるマリンレジャーの大型イベント「横浜国際マリンエンターテイメントショー'06」も開催する。根底にあるのは、「地元に住んでいる人々が楽しめるウォーターフロントをどうつくるか」という発想である。地元市民が楽しんでいれば、観光客は放っておいても集まってくる。海からの視点はそんな好循環をもたらす基点と期待される。
「マリンエンターテイメント」の祭典、5月にMMで開催 横浜国際マリンエンターテイメントショー最後に、ナショナルアートパーク構想を現実のものとするための課題を考えてみたい。まず、大切なことはナショナルアートパーク構想自体を広く市民に知ってもらうことだろう。象の鼻の復元・整備など、景観資源の価値を高めるのは行政の役割だが、そこに楽しさや豊かさをもたらすのはアーティストやクリエイターといった人間にほかならない。すでに実行されているプロジェクトである横浜トリエンナーレやBankART1929も市民の認知は十分ではないとする指摘もある。ナショナルアートパーク構想の実現には市民の参加が不可欠だ。市民に知ってもらうことによってこそ、行政と市民の協働という理念が達成されるのだし、何よりもナショナルアートパーク構想のコアとなるソフトを創出することが可能になるだろう。
同様に、プロジェクト推進組織が民間の声を生かす場となれることも重要だ。推進組織でリーダーシップをふるい、個々のエリアにふさわしいプロジェクトを構想し、それに適切な人材(アーティストやクリエイター)を選んでいくプロデューサーの役割がきわめて大きいからだ。
今回まとめられた「提言書」は、横浜という舞台を文化芸術に代表される創造性あふれる都市とするナショナルアートパーク構想のシナリオである。今後は、そのシナリオのもと、どんな俳優(アーティストやクリエイター)にどんな表現を演じてもらうのか、そして市民がその舞台をどのように楽しめるようにするのかという、演出の段階に入っていく。
その道は平坦ではないかもしれない。都市の文化戦略の国際的な権威であるチャールズ・ランドリー氏は、2005年12月に横浜を訪れ、創造都市を実現のための要素について講演した。そのメッセージのいくつかを紹介しよう。「私たちが持つ能力のぎりぎりのところで考えよう」「領域や分野のクリエイティビティを超えた包括的な視野をもとう。創造都市の基本的な要件は、参加型であること。権限を委譲して人の能力を最大限に発揮させていくこと」「大きなリスクを取る準備をする文化が大切」。
高い目標を掲げ、その目標に向かって衆知を集め、既存の枠にとらわれずに考えることが大切だとランドリー氏は横浜でまちづくりを担う人たちに語りかけた。まさにそうした精神・文化を持った行政と市民との協働によって創造都市への道を切り開くことができるのではないだろうか。
小林秀雄 + ヨコハマ経済新聞編集部