「浜志"まん」の前身、「市村菓子店」が創業した1913年(大正2年)は、ちょうど森永ミルクキャラメルが*一箱10銭(当時の米5合と同値)で発売された年。当時の小学校教員の初任給が10円程度であることを考えれば、かなりの高級品だったと言えよう。キャラメル一粒さえ庶民にはまだまだ手の届かないものであった時代に、菓子職人への道を歩み出すのは勇気のいることだったのではないか。
「初代オーナーであった祖父・市村倉三はもともと左官屋の息子です。しかし当時の左官屋は今以上に肉体労働で、体力にそこまで自信のなかった祖父は跡を継ぐことにためらいがあったようです。そこで、今で言う占い師のような方に見て頂き、神仏のためのものを作る仕事がいいと言われたため、和菓子職人の道へと進んだのです」。
そう、今でこそ手軽に食べられる最中や羊羹だが、当時は主に神様にお供えするためのものだったのだ。
「とはいえ、創業当初は大変だったと聞いています。経営が振るわず、祖父がもう店をたたみたいと祖母(初代の奥様)に言うと、あなたの帰る場所はない、やると決めたことをやり遂げましょう、と諭されたようです」。
(*参考文献/『明治・大正・昭和・平成 物価の文化史辞典』森永卓郎監修、展望社出版)
店の経営が厳しい中でも、初代オーナーの商品づくりに対するこだわりは徹底していた。「横浜には甘いもので自慢できる土産物がない。だったら自分が作ろう」そんな思いを発端に、試行錯誤を重ね生まれた商品が「濱志"まん最中」だ。
「濱志"まん最中」は、横浜で初めて中に栗を入れた豪華な最中。掛け紙のデザインと印刷は刷り師の佐藤正文堂に依頼し、歌舞伎好きだった初代オーナーの趣向が反映された美しい仕上がり。上等な甘さもパッケージも「土産物」となることを見越して作られた贅沢なものだ。
オーナーの狙い通り、「濱志"まん最中」は贈答用として人気を集め始める。1934年(昭和9年)、「横浜貿易新報(現・神奈川新聞)」が実施した「美味いもの、お土産もの」の読者投票では、地方からの投票も集まり見事第6位に選出されると同時に、「一個の最中にもそこに渾身の力が打ち込まれれば、生命の躍動する立派な品物となって万人を引きつける事が出来る」と絶賛され、一躍脚光を浴びた。最中人気が高じて店そのものが「浜志"まん」と呼び親しまれるようになると、それならばと屋号を変えてしまったそうだ。
軌道に乗り始めた「浜志"まん」に、時代の波が押し寄せる。1923年(大正12年)の関東大震災で伊勢佐木町は壊滅し、また1945年(昭和20年)の第二次世界大戦では米軍によるおよそ43万発にも及ぶ焼夷弾投下が横浜を襲った。「浜志"まん」の店舗は震災によって全壊し、再生を遂げたのちに今度は戦災によって焼け出された。市村さんは言う。「当時の横浜に住む人はみな同じような状況だったのだと思います。ちなみに祖父が修行を積んだ清林堂は扇町にあったのですが、関東大震災で全壊し、従業員から経営者の方々までみなさんお亡くなりになったと聞いています」
終戦から5年が過ぎた1950年(昭和25年)、「濱志"まん最中」は「神奈川県指定銘菓」に選定され、横浜の銘菓として押しも押されぬ存在となった。しかしその一方で、時代の流れを掴んで土地柄も活かし、更なる発展に向けて歩み始める。
「戦後、横浜では舶来品が多く出回り人気を集めていたことに加え、ちょうど渡航手段が船から飛行機へと変わった時代でした。船で働いていた方たちが陸に仕事を求め始め、特に横浜には日本郵船で活躍した優秀なコックさんたちが多くいらっしゃいました。そのうちのひとりの方に、洋菓子の作り方を伝授してもらったのです」
1957年(昭和32年)、2代目オーナーの時代を迎えていた「浜志"まん」は、洋菓子の製造・販売を開始。日本郵船仕込みのシェフをパティシエに迎えて作られた洋菓子の数々は、物珍しさも手伝いあっと言う間に人気を集めた。洋菓子を手がけ始めてから6年後となる1963年(昭和40年)には、あの美空ひばりのバースデーケーキ作成を依頼されたという。
苦しい創業当初に始まり、名物最中の開発、震災と戦災からの復興、さらには洋菓子への転向と、40年余でさまざまな局面を迎えた「浜志"まん」。しかし、どのような場面でも常に「質に対する徹底的なこだわり」は全く揺るがなかったことに注目したい。ここで鍵となる「郵船式」と呼ばれる洋食スタイルについて触れておこう。
『日本にある洋食は2種類、「帝国ホテル式」と「日本郵船式」だ―』。当時帝国ホテルのレストランと並んで賞賛されていたのが、日本郵船の客船でふるまわれる洋食である。大正から昭和初期にかけての豪華客船時代、乗客はかなりの富裕層であり、一等室には外国人も多い。舌の肥えた客層を満足させるために、船舶会社はさまざまな趣向を凝らししのぎを削った時代である。豪華でバラエティに富んだ「郵船式」の料理は国内外を問わず人気が高く、喜劇俳優・チャーリー・チャップリンは「郵船式」の料理を食べるのを第一目的に、日本郵船の客船に乗ったという逸話さえ残している。
そもそも客船の厨房には制約が多い。船の揺れに備え電気機器で調理し、食品の調達も廃棄もままならない。一方、長期間に渡り同じ客の食事を提供するため、メニューは豊富に用意せねばならない。そんな厳しい状況に対応すべく、日本郵船は料理人の徹底的な教育を開始。現・日本郵船ビルの3階に厨房を完備し、1936年(昭和13年)にフランス人シェフを講師として招くと、本場フランス料理のレシピを直接伝授させた。初代講師・フランス人シェフのポール・ボティジに支払われた年俸は約4,000円。これは、当時花形と言われた欧州航路を受け持つ船長とほぼ同額である。努力と工夫の結果、日本郵船では横浜―ロンドンという40日間に渡る航路においても、同じメニューは一度も出されたことがないという。
また、当時は決められた予算と停泊港で食品の調達をするのも全て料理長の役割。メニューを組み、予算内で材料を過不足なく仕入れ、かつ日本で一、二を争う味を提供するという、まさに「神業」ともいうべき仕事をやってのけていたのが日本郵船の料理長だと言えよう。
和菓子の名門として名を成した「浜志"まん」が洋菓子を手がけるという試みは、優秀さにおいて右に出るもののない、郵船出身のコックあっての決断だったのだ。
(写真提供・取材協力/日本郵船歴史博物館)
さて、時代は高度経済成長期に入る。「浜志"まん」は好景気を追い風に、1950年代には馬車道に、60年代には横浜駅の駅ビル「Cial」に店舗を出すなど規模を広げ、販売商品も増やした。しかし、現在店舗は伊勢佐木町の一店舗のみ。初代による「濱志"まん最中」を始め、アイスクリームなど数商品を製造中止とする決断もあった。
「景気の良いときには良いときなりの大変さがありました。小規模経営にした今、私と妻、パティシエの工藤さんと兄の4人で、全員が納得のいくものだけを提供することに専念できます。全て自分の目の届く範囲で、自信のあるものだけを提供していきたいので、実はこの規模が最適なんです。もし今後景気が良くなったとしても、規模を広げることは考えられません」と、市村さん。
少量でも、上質で納得のいくものを提供したい―。その思いは初代、2代目と変わらず続く「浜志"まん気質」なのだろうか。
「浜志"まん」で現在チーフ・パティシエを勤める工藤英治さんは御年70歳を越える。日本郵船で活躍したシェフから直接レシピや技術を教わり、「浜志"まん」で洋菓子を作り始めて40年以上が経つ。
「初めてケーキを食べたとき、どうしてこんなにおいしいものがあるのかと、不思議に思ったのを覚えていますよ。同時に、作り方を覚えれば必ず一生の仕事になると確信しました」という工藤さんは、子どもの頃から大の甘党。しかし大好きな羊羹や最中は正月にしか食べることができなかったという。ケーキがいつでも食べられる時代となった今でも、初めて食べた洋菓子の感動的なおいしさを伝えたい、という熱意は変わらない。
工藤さんと市村さんのお兄さんが手がけるケーキは、どれもクラシックでシンプルだ。中でも看板商品の「ボストン・クリームパイ」はアイシングで飾った薄いスポンジで、たっぷりのカスタード・クリームと生クリームを挟んだだけのもの。もともとアメリカ・ボストンの老舗ホテル「OMNI Parker’s House」で生まれたこのケーキは、アメリカでは誰もが知る家庭の味だ。シンプルな作りゆえに、素材ひとつひとつに自信がなければ勝負できないこのケーキも、「浜志"まん」の手にかかるとびっくりするほどおいしくなる。
「クリームや具材で味に変化を出すことは簡単ですが、濱志まんのケーキが最もこだわるのがスポンジのおいしさです」と工藤さんが言う通り、スポンジだけでも上等なお茶受けになりそうな味。今日「るるぶ」や「まっぷる」の横浜特集では必ずと言っていいほど取り上げられ、「スイーツ親方」の異名をとる大相撲の元横綱・大乃国親方もお気に入りとしてテレビや雑誌で紹介している。また、過去に「濱志"まん最中」も受賞した「神奈川県指定銘菓」にも選出された。
その他、モンブランやレモンパイ、サバランなど、ケーキは20種程。誕生日ケーキは毎年「浜志"まん」で、という固定ファンも多いという。「ケーキを食べるのは、誕生日や記念日、クリスマスなど楽しい日ですよね。そんな幸せな思い出の片隅に、濱志まんのケーキがあれば何よりも嬉しいことです」と市村さんは笑う。
オリジナル「ボストン・クリームパイ」のレシピ(Omni Parker’s Houseホームページより)
昨今よく聞く「100年に一度の大不況」と言う言葉。何気なく使ってしまいがちだが、振り返ればこの100年は震災に戦争、高度成長期と「不況」以上の事件も多々起きた年月だ。神様のための甘味が庶民の食卓に降りてきた激動の時代に、ときに翻弄され、またときにはそれを利用しつつも、今なお愛され続ける「浜志"まん」。市村さんのこんな言葉が、なによりも印象的だ。「街やデパートで、浜志"まんのケーキのコピーのようなものも見かけることがあります。でも、食べて笑顔になる方がいるのならそれでもいいかな(笑)」
先見の明、上質さへの徹底的なこだわり―。それらはただ、人を喜ばせたいという思いから生まれたもの。市村さんの笑顔を見ると、小さな和菓子店だった「浜志"まん」が長い年月を生き抜いてきた秘密は、そんなシンプルな気持ちにあるのかもしれないと思わされる。
ヨコハマ経済新聞編集部