三浦 本日は長田弘さんにお話をうかがいます。私事で恐縮ですが、ぼくは以前に勤めていた会社の倒産や、春風社の立ち上げなど、変化の時期に長田さんの作品を読み返したり、新しい作品を買って読んだりしていました。ですから、長田さんの作品を自分のホームグラウンドのように感じています。そんな長田さんの本の中から3冊選ぶのはとても大変でしたが、今回は『ねこに未来はない』(角川書店)、『私の二十世紀書店』(みすず書房)、『記憶のつくり方』(朝日新聞出版)の3冊を選んでみました。
まず、『ねこに未来はない』について。今も猫を飼われていますか?
長田 1匹だけ飼っています。今は猫とふたり暮らしなので、今のが一番親しいつきあいをしていますかね。
実は、人前で『ねこに未来はない』について話したことは今まで1度もありませんでした。この本は角川文庫に収録される前に晶文社から単行本として発売されていて、両者ではいろいろなところが違うのです。
どうも猫の本をつくると変なことが起こります。単行本には口絵に猫の写真がついているのですが、写真に登場する猫は本文に出てこないのです。『ねこに未来はない』のずっと後に、イラストレーターの大橋歩さんが絵を描かれた『ねこのき』(クレヨンハウス)という絵本を作ったのですが、不思議なことにその表紙の猫にはひげがないのです。片一方は写真の中に出てくる猫がいなくて、もう片一方はひげがない。どうも猫を描くとろくなことがない(笑)。
『ねこに未来はない』はもともと『新婦人』(文化実業社)という雑誌に連載していて、長新太さんが、連載の挿し絵と、単行本の表紙を描いてくださいました。普通は連載で使っていた挿し絵を本に使うものですが、単行本を作る際に、長さんはなぜかあらためて全部描き下ろされている。だから、連載と単行本では絵が違うのです。
文庫になった際も、長さんが「描き直したい」とおっしゃって新しい表紙の文庫ができた。その後にも一度長さん装画でデザインが変更されました。今の文庫の装画は、長さんが亡くなってから別の方が描いたもので、出版社の方から「今度はこういう表紙になりました」と報告があって、初めて「ああ、そうなの?」と(笑)。「猫は9つの命を持つ」ということになっています。その本はまだ4回しか作っていないので、あと5回くらい変化するんじゃないかしら。
三浦 参加者の方に質問や感想をうかがってみたいと思います。
参加者 本文に出てくる、最初の猫のチイをゆずってくださった大酒のみの詩人とはどなたでしょうか?
長田 誰だっけなあ…。今の猫のことなら語れるのですけど、その前のこととなると、もうぜんぜん覚えていなくて。今の猫は、近所の稲荷神社で「さしあげます」という案内を見て行った先に、3匹の子猫がいて、その中で「ぼくをもらってください」と元気よく飛び回っていた猫です。その前のことは「あれ、どうだっけ」という感じです。さらにずっと前のことになると、もう「日本人の起源」みたいなはるか彼方のことで、よく覚えていないですね。
当時はかみさんが飼い主だったので、あんまりくわしく知らないのです。その頃はあまり猫が好きだったわけではないですから。今はぼくが飼い主なのでまた違いますけれどね。
今の猫に対する礼儀として、というのもあるけれど、猫というのは、今現在が大事なのであって昔の猫についてはよく思い出せないものです。
猫というのは非常に現在的な生きもので、「未来はないけれど現在がある」のです。「現在しかない」といってもいいのですけど、その現在たるやおそろしく律儀なものでしてね。特に今の猫はパンクチュアル(時間に正確)で、朝食は午前8時と決まっている。ぼくはずっと朝遅いほうでしたが、猫が起こしに来るので8時前に起床しなきゃいけない。他にもうひとつパンクチュアルな存在があって、それがゴミ収集車です。この8時というのがぼくにとって絶対の時間になってしまい、毎朝7時50分に目を覚まして、猫の餌を作って、それからゴミを捨てる。
さっき春風社の近くに植えられている桜の名札を読んでいたのですが、山桜に「バラ科ヤマザクラ目」と書いてある。同じように猫というのは、あんなに小さな身体ながら、恐れ多くも虎までも従える猫科なのです。ちょうど、バラが桜を従えるように、猫が虎を従える。それと同じように、ぼくを毎朝8時に起こすという誰もできなかったことをやってのけたんです。
三浦 157ページに「あまりに現在形な動物なのだから」という話が出てきますね。
長田 その頃から猫に関する考えは変わっていません。ただ、以前3匹の猫を同時に飼っていた時期があって、その3匹はみな21年から23年生きたのですね。毎年1匹ずつ死んでいって、3年かけて1匹もいなくなった。猫がそうやって死んでいくさまを目撃したことで、『ねこに未来はない』の頃とは、猫の死について違うとらえ方ができるようになりました。それで、後に、「三匹の死んだ猫」という詩を書いたのです。
現代では、猫の死も人間の死と同じように扱われ、ただ「死にました」では終わりません。たとえば、東日本大震災の時には、自分の飼っていたペットをどうすればいいのかという問題に直面しました。
特に猫は家につくと言われていますから「飼い主が家を追い出された」となったら、かわいいつもりで飼っていたのが、さまざまな問題を抱える存在に変わる。その場に残していった飼い主もいるかもしれない。自分の生活するところで、もし災害が起こったらと考えると、ペットを飼うというのもそう簡単なものではないと思いますね。
三浦 長田さんの本はタイトルがとても印象的ですね。
長田 タイトルというのも不思議なものです。J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(白水社、訳者は野崎孝)という本がありますね。この本はずっと後に、村上春樹さんが『キャッチャー・イン・ザ・ライ』というタイトルで翻訳されました。しかし、あれほどの人気作家をもってしても、『ライ麦畑でつかまえて』という最初のタイトルを超えることができないのです。
ドストエフスキーに『白痴』がありますが、あれは直訳すると「バカ」という意味だそうです。「あれを『バカ』と訳したら、はたしてこれほど読まれる小説になっただろうか」ということを書いていた人がいました。
ソーセキ・ナツメの『I Am a Cat』なんて出てくるとどうもマンガっぽくなってしまう。英文学者の福原麟太郎さんは、それでは「吾輩は猫である」の持つ語幹が消えてしまうと考え、よりよいタイトルを考えました。そこで『Here I Am -- a Cat』と訳した。なんでもないことのようですが、作品の根幹に関わることなのです。
三浦 1冊をのぞいて、本のタイトルをすべてご自分で決定されているとのことですね。
長田 ぼくはだいたいタイトルが先にできることが多いんです。ほかの方とは違うのかもしれませんけれど、書いたものの最終の形というか、定稿というのは本になったときと自分の中で決めています。
訳題でも原題でも、タイトルには大きな意味があります。タイトルには著作権がないので、同じものが出てくることがある。タイトルによって本の印象が決まってしまうこともずいぶんあります。本も商品ですから、時代の常識に左右される。しかし、時代にあわせてタイトルを作ると、本そのものが羊頭狗肉になってしまいます。タイトルも作品のうちと考えるのが、本当はいいのです。
三浦 次は『私の二十世紀書店』です。これは、20世紀を生きたさまざまな人たちが残した「本」に関するエッセイ集です。
ぼくは高校の社会科の教師をやっていた時期があり、生徒にもこの本をすすめていました。ぼくにとって、20世紀の教科書という位置づけです。20世紀を勉強するには、この本1冊と感じています。
たとえば、ギリシャの政治家でミュージシャンでもあるミキス・テオドラキスという人を取り上げています。174ページに「テオドラキス」という項があり、その中に『抵抗の日記』という本が紹介されている。本文を読み上げてみましょう。
『抵抗の日記』と題された一冊の本。その主人公は、ちいさなテープレコーダーだ。この本のむこうに、エーゲ海にのぞむ国の隠れ家で、あるいは流刑地で、おおきな身体を折って、テープレコーダーにむかって一人ひそかに語りかけ、うたいつづける大男のすがたがみえる。大男の名はミキス・テオドラキス、現代ギリシアのもっとも魅力的な音楽家だ。
ギリシアの戦後をつらぬいて、音楽家としてのミキスは、国家権力にもっとも果敢に立ち向かう一人として生きてきた。とりわけ過酷な独裁下にあったギリシアの六〇年代を、ミキスはアテネの街で、隠れ家から隠れ家へ追われながら非合法運動をつづけ、ついに逮捕され、投獄され、流刑をうけて過ごす。
今日は彼の作曲集のCDを持ってきました。タイトルは『People’s Music』(人民の音楽)。
1曲目に「ソティリス・ペトルーラス」という曲があります。ペトルーラスは『抵抗の日記』にも登場する青年で、「1965年4月21日」の日記には、テオドラキスが演説を行った際のことが書かれています。>
23歳の経済学生ソティリス・ペトルーラスがテオドラキスを肩車に乗せ、群衆をかき分けて演壇に運んだ。夜に入ってペトルーラスは頭上に炸裂した催涙弾で殺された。警察はその死体を隠し去った。
このような記述があります。そのペトルーラスのことを書いた曲なのですね。
先ほどの『ねこに未来はない』に、「そんなふうにふたりとも恋愛にとてもむちゅうだったので、世界はまるで魚眼レンズでのぞきこんだようにまあるく、まんなかはしっかりとおおきく、はしっこのほうはボンヤリとゆがんだりかすんだりしていて」という描写があります。
同じようにテオドラキスの周りにはたしかな現在があって、それは彼にとっては非常におおきくふくらんで見えて、その延長線上はかすんで見えていたのではないか。そんな風に、彼の見ていた世界を共有できるような気がする。だから、よけいにこの人はどういう現在を生きているのかと興味がもてる。『私の二十世紀書店』はそんな本だと思います。
では、ここでまた、ご来場の皆さんに質問や感想をうかがいたいと思います。
参加者 この本を読んでいると、さまざまな場所を旅したような感覚に陥ります。戦争と革命の世紀と呼ばれる20世紀の物語ですから、語りようによっては世界情勢を語るような大げさな言葉になってしまう恐れもある。しかし、この本はあくまで日々の暮らしに目を向けながら、20世紀のさまざまなところで生きている人々について書いているように感じました。
長田 新聞の中央紙と地方紙の違いはなんだと思いますか? 「地方紙は地方目線で書かれている」などと答えがちですが、そうではありません。地方紙は死亡欄が充実しているのです。東日本大震災の際も、地方紙にはひとりひとりの死亡記事が掲載されていました。
世界のすべての地方紙において、「誰がどのように死んだか」を報せることは、とても大きな意味を持っています。中央紙だけが残っていくとそれがなくなってしまいます。
人が死ぬことが社会にもたらすことの意味はとても大きい。それでいながら、近代に生きるわれわれは、かつてマーク・トウェインが語ったように、その日だけその人の死を悼んで、あとはすっぱり忘れてしまう。本や歌あるいは詩はその逆です。「この人はどのように死んだか」を語るのです。
みなさんが知っているもっとも有名な死の歌はマザーグースの「誰がこまどりを殺したか」という歌でしょう。これがずっと続いてきた詩というものの仕事であり、記録文学の果たしてきた役割なんです。
「Peoples' Music: the Struggles of the Greek People」
19世紀の終わりから20世紀にかけては世界史の中でも特異な100年だったと思います。革命と呼ぼうが戦争と呼ぼうが、大量死をもたらしたことに変わりはありません。
信じられないと思いませんか。北朝鮮で死んだ人の遺骨が数十年過ぎて出てくるのです。日本ではその骨に大きな意味を持たせます。太平洋戦争でも、今回の北朝鮮の件でも遺骨が戻ってくることを重要視する。この習慣はヨーロッパにはほとんどない。
ヨーロッパは現地主義です。現地に骨を埋める。だから、ノルマンディー上陸作戦が行われたフランスの海岸や、第1次世界大戦で戦場になった場所に、おびただしい数のイギリス人の墓がある。
ところが、第1次世界大戦はひとりひとりの名前の墓があるけれど、第2次世界大戦になると死者が多すぎてそれがない。
戦争に対しても、それぞれの国でずいぶんとらえ方が違うことがわかります。たとえば、ぼくが感じる韓国と日本の大きな違いは、韓国はベトナム戦争に参戦し、当事者として戦争を経験しているという事実です。韓国映画を見ていると、恋愛映画の中に突然ベトナム戦争に参戦して死んだ人の話がひょいと入ってきます。日本ではそういうことはほとんどない。戦争は非常に不思議なもので、そういうところを垣間見せてしまう。
日本もいろんな戦争を経験しました。ぼくが一番印象的だったのは、第2次世界大戦時に軽井沢にいたフランス人記者の話です。彼は大戦最後の年に、軽井沢に勾留されていた。そして、8月15日に解放されます。そのときに軽井沢の人たちが出迎えてくれて、口々に「よかったですね」という。今まで自分を閉じこめていた人たちが「よかったね」というのです。「こういう人たちがどうして戦争を始めたのだろうと非常に不思議に思った」という文章を残しています。
第1次世界大戦というのは日本の言葉です。日本語はとても注意深い言葉なのですね。英語ではHoly Warともいいます。そして、第2次世界大戦の後は「戦争」という言葉が使われなくなって「紛争」などという言葉に変わっていく。ベトナム戦争がかろうじて「戦争」という言葉を使っています。
戦争で死んだ人についてどう書くかを日本人の問題として考えなくてはいけません。この間もシリアの紛争に巻き込まれてジャーナリストが亡くなりましたが、英語のメディアはすべて「She was killed」、つまり殺されたと書いています。でも、日本語のメディアは、事件から日が経つにつれ、まず例外なく「没した」という表現を使うようになります。
「殺される」、「死ぬ」、あるいは「没する」。
昨日も「リビアでアメリカの領事館員が殺された」というニュースがありましたが、「殺された」と書いていない新聞がある。日本では「殺された」という言葉を原則的に選びたくないという気持ちが働く。しかし、「殺された死」と「そうではない死」とでは非常に大きな違いがある。
日本では戦争で死んだ人たちの鎮魂碑を、山や町外れに建てます。しかし、ずっと戦争をやってきたアメリカでは、町の真ん中に建てる。小さい田舎町でも教会と同じように必ず建てられていて、「その町の人がどの戦争で何名死んだか」が記されています。ベトナム戦争で何人、第2次世界大戦で何人の死者が出たかとちゃんと書いてある。
日本にはそれがない。だから、死んだ人の持っている意味が、「御霊」になるとかいう言葉で表現されて、抽象化されたものになっていく。そして、その死にほんとうに意味があったのかどうかさえもわからなくなっていく。
それに抗って、なんとかして自分たちの記憶にとどめたいという感情から、いくつもの本や詩が書かれてきたと考えてみると、特に20世紀は1日の例外もなく死者の日であると思います。こういう人が生きて死んでいったという物語になるような死が毎日訪れている。
『私の二十世紀書店』の中で、メキシコの「ペドロ・パラモ」について書いた時に、訳者が非常にうまい言葉を使っています。「死者が遺しているのは『ささめき』なんだ」、「耳を澄ましてその『ささめき』が聞こえるはずだ」と、「ささめき」という言葉を選ばれたんです。ぼくはそれが非常に印象的で、耳をすまさないと聞こえない「ささめき」という言葉の中に、日本人の死者に対する気持ちがこめられているように思います。
このエッセイは、すべて日本語に訳された外国の本の話です。こんなに世界中のものを翻訳している国はありません。どこの国に行っても見つからないものが日本に来ると翻訳されて存在する。だから日本ではその気になれば、ほとんどのものを読むことができる。「英語を勉強して話せるようになれば、世界を知ることができるようになる」とみなさん思わされていますけど、英語に翻訳されているものは非常に少ない。日本の文学がどれだけ英語圏で訳されているかをみればすぐわかります。
しかし、日本では、ほんとうに太平洋の島々に至るまで、さまざまな国の翻訳がほとんどある。まじめに、勤勉に、全て出版されます。
第2次世界大戦中、あれは満州事変から数えて15年続いた戦争ですが、その間日本はずっと閉ざされて鎖国のようになっていたと考えられがちです。しかし翻訳の分野だけでいうととんでもない。太平洋戦争のさなかの昭和18年、1943年は日本でもっとも翻訳が出版された年なんです。本当に翻訳本が一切出版されなかったのは、その翌年の1944年から1945年の敗戦にかけてだけです。
たとえば朝鮮を占領して植民していたというのはとてもよくないことですけれど、当時の朝鮮総督府をめぐる資料は驚くべき内容のものが、驚くほどたくさん出版されています。それがいまだにさまざまな学術研究の基礎になっている。
実はあまり『私の二十世紀書店』の話をするのは好きではないんです。必ず、「ここに出てくる本はどこにありますか」といわれますから(笑)。でも、見つからないのです。特に、現在ここに出てくる本を探すのはすごく難しい。
難しいけれど、ぼくが入手した経路は実はとても単純です。これらの本はすべてたまたま古本屋で手にした本を中心としている。この「たまたま」は、町の本屋に行かないと生まれない。この本を書店と題した理由はそれです。ところが今は書店がなくなってしまった。
でも、見つからないかもしれないけれど、出てはいる。本の特徴は2冊以上存在することで、1冊だけの本は本じゃない。もっとも売れない本でも必ず複数冊存在するわけですから、いつかは必ずどこかから出てくる。自分が手にした本はあくまで複数冊のうちの1冊だということが、非常に重要なことだと思うのです。
今は町の古本屋さんがなくなった代わりに、デパートの古本市というのがさかんです。そこでは「こんな時代にこんな翻訳がでてたの?」という発見がたくさんある。日本人の翻訳への情熱は、なにも『解体新書』を出版した杉田玄白たちだけに宿っていたわけではありません。こう言っては怒られるかもしれませんけど、そういう本を作っている人たちは、「この本読んでくれる人いるかなあ」と不安に思いながら出版している人がほとんどなんじゃないでしょうか(笑)。
もし『二十一世紀書店』をまとめる人がいたとしたら、その人のためにしてはいけないことがある。それは本に線を引くことです。最近「本の中身を覚えるためには線を引け」という人がいいますが、それは間違っています。特にボールペンで引く人がいます。馬鹿としかいいようがない(笑)。後生の人のためにぜったいやってはいけない。
しかし、書き込んでいることが意味を持つこともあります。それは、「この本を何月何日に購入し、何月何日に読了した」という記録です。
その中のひとつに「真珠湾攻撃の次の日に銀座で本を買って、10日後に読了した」という記録があります。何の本かというと、第1次世界大戦時に、ドイツの収容所に囚われたフランスの歴史家が書いた、収容所での日記つまり俘虜記です。それを銀座の本屋で買った。太平洋戦争が始まった日にそういうことをしていたという記録がそこに残っている。
日本は真珠湾攻撃の3日前に、モーツァルトの交響曲のコンサートをやっています。さらに昭和20年の8月15日、戦争が終わった日に発行された本まである。そんな日にまで本を出していた人がいる変な国なのです。
敗戦の前年、昭和19年に世に出た本というのも存在します。国民の総力結集が求められた時期に出たその本は、はしがきに「見事無用の書が出来上がった」と記しています。『書物』というタイトルのその本は、現在文庫で容易に手に入りますが、文庫の奥付からはそういうことは伝わってこない。(森銑三・柴田宵曲共著、白揚社。後に岩波文庫に収録)
現在の出版の慣例には困った点があります。それは全集がでると単行本が消えてしまうケースがとても多いことです。ぼくはある時から全集でしか読めないものを残して、すべて売ってしまい、あとは単行本を買い直すようになりました。するといろいろなことがわかって非常におもしろい。著者の個性、出版社の個性、それを読んだ人の個性、いろいろな名も無き個性が伝わってくるのは全集ではなく、元の単行本なのですね。本というのは作り方によってぜんぜん違ってくるのです。
さっき取り上げたギリシャのペトルーラスですが、彼にはお墓がありません。だから本がお墓になる。本の中に書かれた文章がその人の記録になる。お葬式で読まれる追悼文などがしばしばそうであるように、言葉というものはその人の死後に記憶を生かすものでもあるのです。
『私の二十世紀書店』では、ほとんど書き手が亡くなっている本について取り上げています。今になってみると、「この人はどういう本を書いたのか」ではなく「この人はどういう本を遺して死んだか」という備忘録になっている。この本は「私の二十世紀墓地」みたいなものと考えていただいてもいい気がしますね。
長田弘(おさだ・ひろし)
1939年福島市生まれの詩人。『私の二十世紀書店』(みすず書房)で毎日出版文化賞、『記憶のつくり方』(晶文社)で桑原武夫学芸賞を受賞している。詩歌のみならず、評論、エッセイ、絵本の翻訳など、多様な分野で活躍している。『読書からはじまる』(日本放送出版協会)、『読書百編』(岩波書店)など、本に関する著述も多い。
古書に書き込まれた読了の記録から、かつてその本を手にした人のことを読み取ろうとする長田さん。記録するということ、それを受け取ることの意味についてたっぷりお話しいただいた2時間でした。時間の都合で、『記憶のつくり方』についてうかがうことはできませんでしたが、「詩や文学の役割は『この人はどのように死んだか』を語るもの」という言葉を振り返ることで、長田さんの詩の新たな側面を見つけることができるのではないでしょうか。
池田智恵 + ヨコハマ経済新聞編集部