舞踏家として生きた大野慶人(おおの・よしと)さんが1月8日、敗血症で息を引き取った。自宅と稽古場「大野一雄舞踊研究所」は横浜市内。舞踏を中断していた1970年代にはシルクセンター(中区山下町1)で薬局の店長を務め、1978年建築の「大佛次郎記念館」(山手町113)の建設運動にも関わった。舞踏再開後、1986年には横浜関内ホール(住吉町4)のこけらおとし公演、1993年の赤レンガ倉庫3号上屋(その後取り壊され現存しない)での「御殿、空を飛ぶ。」公演は赤レンガ倉庫1号2号が保存活用される要因となったり、2006年に映画「ヨコハマメリー」に出演したりと、横浜との関わりは深かった。
本稿は、ヨコハマ経済新聞1月11日掲載記事「舞踏家・大野慶人さんがラストダンス 研究生たちと共に」で、最後のダンスの写真を収めた紀あさ(横浜在住・写真作家・ギリヤーク尼ヶ崎黒子)が担当し、その生涯と、最後のひとときをつづります。
舞踏と生きた81年
1938年、舞踏家大野一雄さん(1906年-2010年)の次男として生まれた。幼い頃、戦地にいた父の顔は写真でしか知らなかった。
幼少期の慶人さん(兄・永谷幸人さんのアルバムより)
戦時中は千葉の叔父の元に疎開。一雄さん復員後、1946年、横浜市に居を移した。
千葉の勝浦で、叔父・兄とともに(同上)
1951年、サッカー部に在籍し、父の舞台に感動したが自分が踊るとは思わずにいた中学生時代、母から、父が新しい踊りをどうしても伝えたがっていると頼まれ、稽古を始めた。1959年4月、大野一雄のモダンダンス作品「老人と海」でデビュー。同年5月、舞踏家土方巽さん(1928年-1986年)の「禁色」に少年役で出演。「禁色」は、のちに「舞踏」の始まりと呼ばれる歴史的な作品となった。
「老人と海」、少年役の慶人さん(奥)とマグロ役の兄・幸人さん(手前)(提供=大野一雄舞踏研究所)
その後、舞踏家として、1960年代の土方作品のほぼすべてに出演。1969年、独舞公演「大野慶人DANCE EXPERIENCEの会」を開く。土方巽のいないソロ舞台の本番で、体が固まり動けなくなった。挫折。公演後、舞台活動を中止。ドラッグストアの経営や大佛次郎夫人の秘書を務めた。
稽古場で半生を語る慶人さん(DVD「花と鳥 舞踏という生き方」より)
1977年、「舞踏」の代表作とされる大野一雄「ラ・アルヘンチーナ頌」が初演。演出の土方巽に乞われ、慶人さんは音響と制作で8年ぶりに舞台と関わった。その後海外公演にも同行、大野一雄に対して演出的助言をするようになっていく。ソロ公演での挫折から16年後の1985年、大野一雄舞踊公演「死海」で共演しカムバック。1986年の土方巽逝去後は、大野一雄の全作品を演出し、世界各地をともに巡演した。
「ラ・アルヘンチーナ頌」(撮影=池上直哉さん)
2001年大野一雄最後のソロ公演「花」を演出。一雄さんの「息子」として従属的に見られることもあるが、近しい人は「慶人さんの演出あっての一雄さんだった」「慶人さんは一雄さんに厳しかったよね」と振り返る。晩年の一雄さんは腰を痛めて立つことが困難になり、アルツハイマー型認知症とも闘病。慶人さんが一雄さんの車いすを押しての共演もみられた。
車いすの大野一雄と舞台に立つ慶人さん
2010年の一雄さん没後も、横浜BankARTで「大野一雄フェスティバル」を2015年まで開催、慶人さんが深く関わった。稽古場のほか、国内外でワークショップを行い、舞踏を伝えた。ソロ作品には「時の風」(2012)、「花と鳥」(2013)などがあった。
大野慶人ソロ「花と鳥 - 未来の私への手紙」
大野一雄に師事し、慶人さんと約半世紀の付き合いのある舞踏家の上杉満代さんは、こう語った。
「父大野一雄は、踊る話しかしなかった。慶人さんは大野一雄との関係の中で、家族を支えた人。そして家族だけでなくて『舞踏界』を支える、そこまで背負われた人。背負ったものの大きさは大変なものだったと思う。そんな中で自分の踊りまで探した。一雄さんが亡くなって自分の踊りのメソッドを作りながら、やっと慶人さん自身の踊りが空間に花咲き始めた。善人でやさしくて、だから踊りが柔らかくて。最期もそういう亡くなり方だったなぁって」
慶人さんの告別式で配られたカード
大野慶人ラストダンス、愛に包まれる時間の中で
ここからは最後の日々を写真でつづりたい。
2019年10月9日、大腿骨骨折で入院。難病の大脳皮質核変性症を疑われ2カ月以上の長期入院となる。12月16日に退院。右半身が硬直し、ベッドで過ごす時間が長く稽古場には移動できなかった。研究生で介護職に従事する加藤道行さんの提案で、12月22日より自宅での稽古を再開。車いすに座って研究生の踊りを見る形にした。
12月29日、退院後2度目の稽古。この日は体調がすぐれず、踊りを見ていただけだった。
車いすに座る慶人先生の前で踊る加藤さん(©紀あさ 以下撮影者名の記載なき写真は同)
稽古後、大好きだというダリの絵を研究生に飾り直してもらう慶人さんと妻の悦子さん
実は筆者は、難病と闘う舞踊家・大道芸人ギリヤーク(89歳)の芸の手伝いをしているが、この日、慶人さんの前で「私は、ギリヤーク尼ヶ崎の黒子としてそばにいて、車いすを押しています。命尽きるときまでギリヤーク尼ヶ崎としていられるように」と口にした。
かつて慶人さんが車いすの一雄さんと踊ってきた日々がそうであったように、慶人さん自身も身体がどうあれ、命の限り踊り続けるのだろうか、とも考えた。
稽古を手伝う加藤さんの発言は、それとは角度が異なった。
「とにかく慶人先生のまわりが、愛に包まれる時間を作っていきたいと思っています」
年明けて、2020年1月5日、退院後3度目の稽古。
穏やかな日差しの中
研究生が作品の披露や、慶人先生への思いを踊った
慶人さんはずっと目を開けているのはつらそう、けれどしっかり踊りを見つめていた
6人踊り終えて、加藤さんが「先生、今日はみんなと一緒に踊りませんか?」と尋ねた。
「はい」と答えた
曲は喜多郎の「フルムーン」。それぞれに踊っていた研究生が誰からともなく自然に慶人さんに近づく。
左半身が踊り出す
両脇で、車いすをしっかりと支える
「先生、もう一曲踊りましょうか?」。曲は祝典音楽、ヨハンシュトラウスの皇帝円舞曲。
「大野慶人の肖像」(四方田犬彦著)の中で、慶人さんは「自分を踊らせてくれるものは周囲の空気なのだ」と語る。それは深くやさしい愛に包まれた空気の中でのラストダンスだった。
2019年の誕生日会の写真が飾られた部屋で踊った
踊り終えて、リビングで笑顔を見せる慶人さん
帰り際、慶人さんにあいさつする研修生たち
筆者が声をかけると 「写真を、撮ってくれて、ありがとう」。
間もなく世を去るとは想像もつかないほど穏やかな時間で、快方に向かうと誰もが思った。
別れの時間
8日、容体が悪化し緊急再入院。18時6分、慶人さんは病院で天に召された。81歳だった。命尽きる間際、ずっと硬直していた右半身が、すっと動くようになった。右手が伸びて、右足も動いて、すべてをリリースして自由になっていったようだった。
9日、自宅で、花がなければ眠っているかのよう。「慶人さんを知る皆が家族のようなものだから」と、遺族は夜遅くまで弔問を受け入れ、訪れる人が途絶えなかった。
「つらかったよね。全部の責任が、ようやく解けたよね・・・」と語りかける次女の圭子さん
深夜まで稽古場にいた研修生たちが、赤ん坊の人形を囲んで踊り始めた。
22時40分、大野一雄舞踊研究所
「部屋の真ん中に赤ちゃんがいるつもりで踊ってください」は慶人さんが稽古でよく言った言葉
「また稽古に来よう」と口々に
11日、慶人さんの遺体は稽古場へ。遺体を見守るかのような大きな写真は細江英公さん撮影。大野一雄と、父母を包むような慶人さんが並ぶ。
悲しみの中に日常もあり、思い出話にも花が咲き、長い時間過ごしていく人が多かった
慶人さんが稽古の時に使う言葉を納めたファイルが置かれていた
夕方、加藤さんが「いつまでも一緒にいたいのですが、どこかで区切りをつけないといけないので」と口を切り、遺族と弔問客の見守る中、研修生たちはひとりずつ慶人さんの前で踊った。
結びの踊りは、大野一雄の舞台映像を完全にコピーした作品「大野一雄について」で知られる川口隆夫さん。
よみがえるかのような手にドキリ
川口さんに意図を聞くと「いっしょになれたらいいなって思って」
見守る次女圭子さん(左)と、妻悦子(右)さん
踊り終わってからも、故人を囲む時間が続いた。
葬儀告別式、最後の舞台
12日16時、教会へ移動。ずっと晴天続きだったが、遺体の移動中は小雨、涙のような空模様だった。
研究生に支えられ、研究所を後にする
教会は小高い丘の上
いつの間にか雨が上がり、夕方の西の空は、ほのかに明るくなってきた。
夜が明けて13日、葬儀告別式。澄み切った青空のもと、教会には200人以上が別れを告げに訪れた。
キリスト教では死後に地獄はなく、必ず天国に行くから「冥福を祈る」ことはないと伝える牧師
上星川幼稚園の三戸部恵美子園長の感話
一雄さんから引き継いで、近年は慶人さんと兄の幸人さんが毎年サンタさんになってクリスマスに幼稚園を訪れるという心温まるエピソードを紹介。
告別は、慶人さんの好きだったバラの花をひとり1本ずつ手向ける。
お別れをする悦子さん
それぞれにバラ一輪
親族、来賓に続き、研究生が献花。慶人さんは稽古のなかで花をよく取り上げた。バラの花を持って歩く、花がなくてもその人が花、花一輪の姿から学ぶ姿勢、舞台の終わりに演者に手渡していた花の多くがバラであったこと。それらをすべて抱えたダンスのような献花だった。
踊りのように花を持ち、歩き姿も、凜と
いっぱいのバラに囲まれて旅立ち
教会の階段を降り、火葬場へと向かう。その道にも、バラを手にした研究生たちが続いた。
高台に望む教会、道行きに続く階段。晴天に恵まれ、クローバーの茂る広場から参列者たちが故人の最後の姿を見届ける。バラを用意した弟子の呂師さんはいう。
「かつて慶人さんは、愛する生徒たちと同じ舞台に立ちながら、踊る心を伝えていました。師の棺に続き、バラ一輪を手に連なる。急で狭い階段をひとつずつ丁寧に降りる。さまざまな師との記憶がよみがえる。この『最後の舞台』を共に全うしながら、いつまでもあなたの弟子であり、共に学んだ同志であるという覚悟を持って、心を手向けたいという願いがありました」
それはまさに最後の舞台のようだった(撮影=万城目純さん)
誰からともなくおこった拍手で棺は見送られた。慶人さんを乗せた車が火葬場へと向かった後、教会のそばのクローバー広場に残る弟子たちの姿は、まだ舞台の続きのようだった。
よく晴れた一日だった(撮影=莉玲さん)
今後のこと、美しさと静けさを胸に踊り続ける
慶人さんの肉体無き後、舞踏はどうなっていくのだろうか。
大野一雄舞踏研究所の事務局の溝端俊夫さんは「非常に大きな空白を感じます。慶人さんは舞踏の全て。舞踏の最初の作品に出演し、舞踏の金字塔というべき作品『アルヘンチーナ頌』は慶人さんがいないと存在しなかった。一雄さんの全作品、舞踏の世界全体を実質的に支えていた人。なくした空白は大きい」と、今は言葉が続かない。
溝端さん(右)
高校卒業後すぐに大野一雄さんに入門した、慶人さんより5歳年下の舞踏家、笠井叡さんは「慶人さんは美少年、踊らなくてもいるだけで形になるような美しい人。ひとつの憧れだった」と昔を振り返る。2003年のブラジル公演の全行程をともにするなど、深い縁があった。 「一雄さんとは違った世界を開いていた。慶人さんが伝えかったのは、どこまでも精神的なもの。形や様式など外から作るものではない。これからもずっと弟子やさらに多くの方に伝わっていくと思う」
笠井叡さん(右)
公演を支え、稽古の記録もしてきた次女の圭子さんは「早すぎた感があるけど本人はやりきった。がんばったねって言ってあげたい。慶人さんの稽古の言葉をまとめたい。『大野一雄―稽古の言葉』(大野一雄著)のように、誰かが理解したものではなくて、そのままの言葉で書きたい」と具体的な希望を口にした。そして「研究所は枯らしたくない、できれば研究生に使ってもらいたい」と続けた。
圭子さんの稽古のノート
研究生たちは火葬場で、遺族の前で踊り、誓った。「これからも私たちは、慶人さんに教えてもらった美しさと静けさを胸に踊っていきます」
遺骨が稽古場へと帰ってきた。誓った言葉の通りに、稽古場でもまた踊りが始まった。
長い1日を終え、稽古場を出た。稽古場に続く細い階段の先を見下ろせれば、ぽつりぽつりとともり始めた街明かりと、富士山まで見晴らせる夕焼けの空があった。
紀あさ + ヨコハマ経済新聞編集部
参考文献
DVD 大野慶人 花と鳥 舞踏という生き方(有限会社かんた刊)
「大野慶人の肖像」(四方田犬彦著/有限会社かんた刊)
ヨコハマ経済新聞2006年10月27日掲載特集 100歳を迎える世界的舞踏家・大野一雄。縁の地・横浜で進むアーカイブ構想とは?