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東日本大震災から14年 能登半島地震での忘れられないやり取り
ニュースパーク企画展「報道写真展」写真記者講演会 リポート

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 東日本大震災の発生から2025年3月11日で14年を迎えた。SNSやネットにより、記者でなくても自分の意見や思いを発信することが一般的になった結果、取材を受けた人やニュースを受け取る人から災害報道についての疑問の声が上がることも増えた。

3月8日、ニュースパーク(日本新聞博物館=横浜市中区日本大通)で開かれた「企画展『2024年報道写真展』写真記者講演会」では、能登半島地震を取材した記者が取材現場の様子や葛藤を伝えていた。

「泣いてもいいんだよ」の写真の状況

 災害取材について話したのは、朝日新聞社写真報道局映像報道部の写真記者、内田光さん。内田さんは、能登半島地震の発生から4日後の2024年1月5日、孤立状態にあった石川県輪島市内の廃校の体育館で、避難していた住民たちを取材。余震の中、布団をかぶって絵を描く兄弟たちを撮影した写真が、2024年東京写真記者協会賞のグランプリに選ばれた。

「泣いてもいいんだよ」避難所で母との約束=2024年1月5日、輪島市内(内田さん撮影、日本新聞博物館提供)

 この写真について内田さんは、「大きな余震が続いていた中で撮った写真」と話し、そのときの様子を説明した。

 「体育館の下の方から、かすかな揺れを体が感じた。みんなが『来た』というような感じがあった。大きな揺れがあったとき、お母さんが子どもたちの上に覆いかぶさって、『危ないからこの布団をかぶっておきなさい』と布団を掛けてあげた。その布団の中で、子どもたちが絵を描いていた、そういう瞬間」

 「一見すると、なんか心温まるような気もするかもしれないが」とも説明した内田さんだが、「この取材をさせていただいたときに、一番心を打たれたできごとがあった」という。

 それは、お母さんが「そう言えば、今日はまだ泣いてなかったね。泣いてもいいんだよ」と声を掛け、小学校3年生の次男が「今日はもう泣いた」と答えたことだった。

 話を聞いてみると、2人は「1日1回は泣いてもいい」という約束をしていた。「大人でも本当に心細くて仕方がない中で、子どもたちは本当に不安な中にあった。子どもたちがそれをワーッと表に出してしまうと、体育館中に不安が伝染してしまう。親御さんたちは、そこにも気を遣わないといけない状況にあった。子どもに我慢だけをさせるのではなくて、1日1回なら泣いていいんだよという約束をしていた」。

 内田さんは、この写真が「避難所で本当に不安の中で耐えている様子」と感じ、「この1枚をメーンの写真として使ってほしい」と社内で伝え、それが大きく報道された。

一度は通り過ぎた廃校の体育館に

 災害時、住民が避難している場所で取材することについて、否定的な声もある。そもそも、マスメディアはなぜ災害を伝えるのか。内田さんは、マスメディアと災害報道についての考え方から話を始めた。

 内田さんはマスメディアが自然災害を報道する理由について、①実際に何が起きているのかを伝える、②被災した人たちが何に困っているのか、どんな困難に直面しているのか伝える、③どういう手助けが必要なのかを伝える、などを挙げ、そうした情報を日本全国に伝えるため、「災害が起きれば新聞社やテレビ局はすぐに、まずは現場に向かうのが基本行動」だと説明した。

 能登半島地震が発生した1月1日夕方、内田さんは非番で家族と初詣に行っていたという。朝日新聞の写真記者は、その日のうちに、東京、名古屋、大阪から6人ほどが能登に向かった。公共交通機関が止まっていたため、社用車やレンタカーを使い、現地で自分たちが生活できるように食料や燃料、ヘルメットや災害用トイレ、衛星通信端末、ポータブル電源を積み込んだ。

 内田さんは写真記者の第2陣として1月3日に出発。翌4日までは、朝市が焼失する被害もあった輪島市中心部や避難所で取材し、避難所で身を寄せ合う子どもたちの様子なども撮影した。

 しかし、「輪島の中心部だけではなく、能登半島の至る所で集落が孤立化している。その情報というのが全く入っていないので、その被害の状況もどれぐらいのものなのか、どれぐらいの方々が困難な状態にあるのか、まったく分かっていない。行政側もつかめていないという状況が、だんだん分かってきた」。そのため、「実態を確かめに行こう」と内田さんは輪島市の東端、市中心部から20キロあまり離れた町野町を目指した。

災害時、通行可能な道路を示すトヨタ自動車の「通れる道マップ」と崩落した道路に落ちた車(内田さんのプレゼンテーションから)

 海沿いの国道が通れれば、通常は30分余りで移動できる場所だが、国道は不通。そのため、内陸の山間部を通る県道で現地を目指した。県道も陥没や崩落があり、動けなくなった車もあった。その県道を、トヨタ自動車が災害時の移動のために公開する「通れた道マップ」も確認しながら、レンタカーで恐る恐る進んだ。

 大規模な土砂崩れのため、県道も不通区間があった。地元の人から「あっちの方は通れるみたいだよ」「さっき消防の人たちも歩いて行ったから、あなたも新聞記者なら行ってみなさい」と教えられ、迂回(うかい)する道を通った。

 迂回路が県道に合流するあたりに、住民が避難していた体育館はあった。当初は、もっと先を目指していた上、連絡が取れる場所までに移動して会社に安否や取材状況、どのような原稿を出すかの予定などを伝えるつもりだった。そのため、その体育館は一度、通り過ぎたという。けれども、「このまま帰っていいとは思えなくて、体育館に戻って、中に入って、『取材をさせてもらえないか』という話をした」。

近隣住民約80人が避難していた廃校の体育館(内田さんのプレゼンテーションから)

掛ける言葉は見つからず、いつも悩む

 体育館には近隣5地区の住民約80人が避難していた。5地区の区長たちに取材の趣旨を伝えると「ちゃんと話を聞いてくれるなら、いいですよ」と承諾が得られた。記者が取材に来たというだけではなく、孤立状態の集落に外部から人が来たということで、「あなた、どこから来たの」「あの道は通れたの」などと避難している人たちに聞かれたという。

 道路も不通になり、テレビもネットも携帯電話も使えない中、ラジオから情報を得ようとしている人もいた。時折、かすかに放送が聞こえることはあるが、山間部のためラジオも入らず、ほとんどが「ザー」という雑音だった。

 「この時、すごく後悔したのは、新聞を持ち歩いていなかったこと。一部でもいいから持っていたら、輪島(中心部)で何があったのか、真新しいニュースではなくて、前日、前々日のニュースだったかもしれないが、皆さんに情報を伝えられたのにとすごく後悔をした。これ以降、新聞は絶対車に積んでおこうと強く思った」

何とか情報を得ようと、ほとんど聞こえないラジオに耳を傾ける避難した住民(内田さんのプレゼンテーションから)

 取材は、入口近くにいた人から始め、順番に話を聞いていった。絵を描いていた子どもたちの家族は、奥の方にいた。「やっとここまで来ましたね」というような感じで。「取材しているのを見ていましたよ」「ここまで来ると思ってました」と、最初から取材を受け入れてくれたという。

 内田さんは能登半島地震の前にも、鬼怒川の堤防が決壊した関東・東北豪雨(2015年)、熊本地震(16年)、九州北部豪雨(17年)、熱海の土砂災害(21年)など、いくつもの災害取材を経験している。それでも、「こういった取材は、非常に難しい」と思いを打ち明けた。

 「初めてお会いする人たち、特に避難されて人たちの中に一人で入っていく。カメラを向けると、カメラ越しに目が合う。その人の目から『なんでこっちにカメラを向けるんだ、やめろ』というような空気をすごくダイレクトに感じたりする。フォトグラファーなので、写真を撮ることが仕事だが、すごくちゅうちょしたり、怖いと思ったりする瞬間がやはり、災害の時にはある」

 実は、その思いが、一度、体育館を通り過ぎたことにも影響しているという。

 「すごく悩んだのはその部分もあって、そこに行って話を聞いたり取材したりするのが自分の仕事だが、そこに足を踏み入れて、カメラを向けるということに対する恐怖もすごくあった。本当に悩みながら、すごく葛藤しながらだが、いなかったことにして帰るわけにはいかないという方がほんの少し勝って、この体育館を取材することになった」

 気持ちを整理して避難所で取材を依頼しても、「入口でも帰ってくれ、こんなとこ取材しないでくれって言われるケースは非常に多い。こうやって取材をさせていただいたケースの方が非常にまれだとは思う」。

忘れられないやり取り、メディアにできること

講演後のディスカッションで話す内田さん(中央)

 講演後、参加者から「必要以上に被災者を傷つけないために心掛けていることは何か」という質問が出た。内田さんは「難しい。まず掛ける言葉を持ち合わせていないと思う。『大変でしたね』という言葉を掛けることすら、はばかられる」と話した上で、「どういう言葉を掛けたらいいだろうと迷うことが、相手を傷つけないことなのではないか」と迷いながら答えた。

 災害時のメディアの役割と取材を受ける被災者の関係については、「取材はやめてくれ、こんなとこ撮らないでくれ、ということもある。一方で、メディアの人にこれを伝えてもらおう、大変な状況だが、大変な状況を伝えてほしいと思う人がいたら、メディアを使ってほしい。メディアは、読者の方、被災地外の方にこういうことが起きているということを伝えることしかできないから」と話した。

住民たちが避難した体育館ではトイレや洗い物のため雨水を貯めていた(内田さんのプレゼンテーションから)

 体育館で取材しているうちに日は落ち、夜になった。住民たちから「2次災害の危険があるから、頼むから戻らないでくれ」と言われたこともあって、内田さんはその夜、輪島へ戻ることをやめ、衛星通信端末を立ち上げて、会社にも連絡した。

 翌朝、「輪島に戻って、一晩取材させていただいたことを読者の方に伝えなければいけないので、これで失礼します」とあいさつしたとき、絵を描いていた子どもたちのお母さんと忘れられないやり取りがあった。

 「それまですごく柔らかい雰囲気で子どもたちにも接していらっしゃったのですが、そのお母さんが本当に涙声で声を詰まらせながら、『伝えてください』と一言、言われた。本当にもう、すごく胸が締め付けられた」

三澤一孔 + ヨコハマ経済新聞

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