1967年(昭和42年)6月から、関内桜通りで営業を続けてきた「山田ホームレストラン」(横浜市中区相生町3)が4月22日、50年の歴史を閉じた。この地区で働くサラリーマンの胃袋を満足させてきた料理人・山田利一さんが今年(2017年)1月、73歳で急逝したため。
妹で、ともに店を営んできた山口美奈子さんが「50周年感謝の集い」を開き、多くの常連たちが利一さんの「あの一皿」の思い出話を肴に「ホーム」だったレストランの閉店を惜しんだ。
「感謝の集い」は、21・22日に開催された。定食の付け合わせとしても人気があった自慢のポテトサラダを山口さんが作り、枝豆やエビフライなどを添え、次々と訪れる常連客たちにビールとともに振る舞った。
山田ホームレストランは、入居する「泰生ビル」が竣工した1967年当時、24歳だった利一さん、22歳の美奈子さん、そして年の離れた姉の山田文枝さんの兄弟3人で開いた店だ。「ホーム」は「家族経営のアットホームな店」という意味だったが、当初は不動産屋に間違えられることもあったという。
オープン当時はランチが150円と200円。東京五輪が終わったばかりで、市営地下鉄も横浜スタジアムもまだなく、日本全体が高度成長の波に乗り、横浜も爆発的に人口が増えた時代だった。
山田ホームレストランの「売り」はなんと言っても豊富なメニューとボリューム。ベーコンレタスサンド・ポタージュ・ハンバーグ・チキンカツ・ウインナー炒めから、マグロの刺身・サバの味噌煮・ニラ玉・餃子まで、常連客が「おとうさん」と親しみを込めて呼ぶ、利一さんお手製の料理は「モーレツ」に働く横浜の官庁街のサラリーマンの胃袋をつかんだ。
また、山田ホームレストランには休憩時間がなく、売り切れるまでいつでも「定食」が食べられるため、タクシー運転手や新聞記者、出勤前のクラブやバーの女性たちなど不規則な職業の人たちにも優しい店だった。
「働く人たちの健康を考えたボリュームある肉料理に、たくさんの野菜と味噌汁。兄のそのぶれない味をお客さんがずっと支持して下さった」と美奈子さんは話す。
野菜が高い時もサラダの量を減らすようなことはしないのが利一さんのこだわりだった。「だって、安い時もありますから。長い目でみればそれほど変わらない。だからお客さんにはいつも同じ量を出していましたね」。
「感謝の集い」には、常連客約160人が2日間に渡って、途切れることなく訪れた。かつて神奈川県庁に勤め、店に通い始めてからから38年目という男性は「閉店を聞いて、久しぶりに関内にやってきた。トンカツにしてもマグロの刺身にしてもボリュームがあり、どれも飽きることのないおいしさがある。閉店は残念」と話す。
また、別の女性は「よくお弁当を作ってもらった。おかずがぎっしり。2人分といったのに、3人で余裕で食べられる量で、すき間ができると野菜を入れてくれる。その心づかいがありがたかった」と懐かしそうに振り返った。
関内に住んでいない利一さん・美奈子さんだったが、美奈子さんは毎朝、店の周りを清掃し、町内会の会合には店を貸すなど、地域にとっても「なくてはならないホーム」として存在感があった。
開店時、2歳半だった美奈子さんの長男の昌春さんは52歳に。美奈子さんは「私は全然、育てていない。隣近所やお客さんたちがいつも遊んでくれたり、長い休みには旅に連れ出したりして子育てを助けてくれた。子どもは、この関内というまち・この店のお客さんに育ててもらったようなもの」と笑った。
今回のこの「集い」はその昌春さんたちが「ちゃんとけじめをつけて、お客さんと町の人たちに挨拶をしよう」と励ましてくれたことで実現したという。
「店を開いて50年間、ほんとうに1度もいやな思いをしたことがなかった。いいお客さんに恵まれ、いい時代を過ごせた。関内はほんとうにいい町。そんな人生を歩ませてくれた兄と、お客さんに感謝したい」と、美奈子さんは最後のにぎわいをみせる店内を見つめながら話していた。