舞踏家として生きた大野慶人さんが1月8日、敗血症で息を引き取った。亡くなる3日前、自宅での、研究生たちとの踊りがラストダンスとなった。
大野さんは1938(昭和13)年生まれ。1959(昭和34)年、父で世界的な舞踏家の故大野一雄さんのモダンダンス作品「老人と海」でデビュー。同年、のちに「舞踏」の最初の作品とされる故土方巽さんの「禁色」に少年役で出演。舞踏家としては、1960年代の土方作品のほぼすべてに出演。土方没後は、父大野一雄作品の演出、共演を手掛けた。ソロ作品にはヨーロッパ・中国など各国を巡演した「花と鳥」(2013年)などがある。
2019年10月9日、大腿骨骨折をきっかけに入院した。2年ほど前から右手に拘縮が見られ、時々言葉が出にくくなるなどの兆しがあったが、入院中の検査で難病を疑われ、入院期間は2カ月以上に及んだ。
2019年12月16日に退院。慶人さんが一雄さんから引き継いだ大野一雄舞踏研究所(横浜市保土ヶ谷区上星川1)は自宅と隣接している。研究所では、慶人さんによる稽古を毎週火曜・日曜に行っていたが、入院により中止していた。退院後も、右半身が硬直してしまい動かずベッドに横になって過ごす時間が長く、稽古場に向かうことができずにいた。
研究生の加藤道行さんは、自宅内で研究生たちの踊りを慶人さんに見てもらう形での稽古を提案。介護職に従事する加藤さんは、入院中に「先生」としての意識を保つことができるようにと、病室でも踊りを見てもらっていた。
2019年12月29日、退院後2度目の稽古。数人の研究生が踊った。それぞれの踊りに「いいですね」と言葉を掛けた慶人さん。「先生も踊りますか?」と加藤さんに尋ねられると「踊れない、今日は踊れない」と辞退。
2020年1月5日、6人の研究生が訪れた。よく晴れた日で、空は青く澄み、部屋の窓からは富士山まで見渡せた。この日も研究生が1人1演目ずつ、慶人さんの前で踊った。自分の作品を見せたり、慶人さんに向かう踊りをしたりした研究生もいた。
「先生、今日は最後にみんなと一緒に踊りませんか?」加藤さんが問いかけると、慶人さんは「はい」と答えた。喜多郎の曲「フルムーン」が流れた。部屋には温かな陽射しが降り注ぎ、慶人さんへの思いに包まれるような時間。研修生たちが踊りながら慶人さんに近付くと、車いすに座る慶人さんの左手が動き始めた。そのまま曲が続き、慶人さんはもう一曲、ダンスを踊った。
稽古に立ち会ったのは慶人さんの次女、大野圭子さん。「退院後、いつも5分おきぐらいに苦しそうに母を呼んでいる父。こんなにも長い間、穏やかにいられたのは初めて」と目を潤ませた。居合わせた誰もが、こうして稽古を続けていき、いつか再び稽古場での稽古ができると信じた。
8日、容体が悪化し再入院。18時6分、慶人さんは病院で天に召された。81歳だった。葬儀告別式は、近親者ら親しい人で執り行なう。お別れの会の開催は検討中。