プレスリリース

「ゴッホ・インパクト─生成する情熱」展 箱根、ポーラ美術館にて5月31日(土)より開催

リリース発行企業:公益財団法人ポーラ美術振興財団ポーラ美術館

情報提供:




ポーラ美術館では、開館以来初となるフィンセント・ファン・ゴッホをテーマとした展覧会を開催いたします。

わずか37年の生涯のなかで、数多くの絵画を制作したゴッホの名声を築き上げているのは、うねるような筆触とあざやかな色彩による独自の様式、そして何よりもその劇的な生涯に対する評価であると言えるでしょう。わが国でも明治末期以降、個性と情熱にあふれたゴッホの作品や芸術に一生を捧げたその生き方は、美術に関わる者たちの心を揺さぶるだけではなく、文化、そして社会といった広範な領域にインパクトを与えました。

今日にいたるまで変わることのないゴッホからの影響を糧としながら、芸術家たちはそれぞれの時代にふさわしい新たな情熱を、どのように生成してきたのでしょうか。本展ではこのような歴史を振り返るとともに、現代を生きるわたしたちにとって「ゴッホ」がいかなる価値を持ち得るのかを検証します。
みどころ
情熱/受難(=パッション)の画家。ゴッホの「パッション」はどのように受け止められたのか。
画家の個性が著しく表出した様式の最たるものとして、ゴッホの絵画表現はさまざまな時代や地域において大きなインパクトを与えました。その独創的な描き方が模倣されただけではなく、劇的な生涯を過ごしながら絵画制作にその身を捧げた画家としての歩み、すなわちゴッホの「パッション(情熱/受難)」は、芸術や文化の分野にさまざまな影響を及ぼしています。ときには社会現象となったゴッホによるインパクトを検証するとともに、鑑賞者の心をゆさぶるゴッホの作品に備わる魅力に迫ります。

ゴッホと日本の物語。ゴッホの「パッション」から生まれたニッポンのインパクト。
日本で初めてのゴッホ・ブームが巻き起こったのは戦前のことです。『白樺』をはじめとする雑誌などに掲載された白黒の複製図版を通じてゴッホに対する理解が深められたものの、実際の作品そのものを鑑賞できた者は当時、ほとんどいませんでした。ゴッホにまつわるわが国でのさまざまなエピソードをひも解くことによって、日本におけるゴッホ・インパクトの歴史を振り返りながら、それぞれの時代から浮かび上がる「パッション」の諸相を検証します。

ゴッホ×現代。わたしたちが奏でるゴッホの変奏曲。
1890年にゴッホは、わずか37年の生涯を終えています。それ以来、ゴッホの芸術が生み出したインパクトがいくえにも重なった結果、ゴッホにまつわる現在の評価が形づくられています。ひとつの世紀を越えたそのプロセスにおいて、ゴッホからの影響を糧(かて)としながら、芸術家たちはそれぞれの時代にふさわしい新たな情熱を、どのように生成してきたのでしょうか。ポーラ美術館の新収蔵である森村泰昌の作品から、ゴッホの母国であるオランダを拠点として活動するフィオナ・タンの作品まで、多様性にあふれた現代におけるゴッホの変奏曲を紹介します。

ポーラ美術館では、ゴッホによる3点の油彩画を収蔵しています。アルル時代の風景画《ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋》(1888年)、サン=レミ時代に身近な自然を捉えた《草むら》(1889年)、そしてオーヴェール時代の静物画《アザミの花》(1890年)であり、異なる地域で描かれたさまざまな主題が含まれています。


おもな出品作品
オランダオランダで牧師の父のもとに生まれたゴッホは、伝道師という聖職に就くという夢を諦めたのち、画家の道を志します。暗い色調で占められたこの時代の作品において際立っているのが、「労働」の主題です。敬虔の念を込めて農民たちの姿を描き出した画家であるミレーのように、労働に従事しながら日々の生活を営む農民たちを取り上げたゴッホは、厳しい現実を前にした彼らに対する共感をありのままに表現しました。



フィンセント・ファン・ゴッホ《座る農婦》1884-1885年、諸橋近代美術館



ジョルジュ・スーラ《グランカンの干潮》1885年、ポーラ美術館
パリパリで画商として活躍していた弟であるテオのもとにゴッホがやってきたのは、1886年のことです。この年には最後の印象派展となった第8回展が開催されており、点描技法を駆使したスーラやシニャックの作品が話題を呼んでいました。芸術の都で印象派や新印象派といった新しい絵画の潮流に身を投じたゴッホは、最新の技法による実験に明け暮れ、色彩にあふれた作品の数々を制作します。画家にひときわ影響を与えた日本の浮世絵に慣れ親しんだのも、この都市においてのことでした。




アルル1888年、陽光と色彩にあふれる南仏のアルルに到着したゴッホは、自らがユートピアとみなしたこの土地で、精力的に絵画制作に励みます。この地で制作された《ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋》では、画面の大半を占める空と運河の青に対して橋と土手には部分的に黄色が、土手に生い茂る草や橋上の低木林の緑のなかにはアクセントとして赤が置かれています。ゴッホは、自らの得意とした補色の効果を確かめようとしていたのです。「耳切り事件」ののちにゴーガンとの共同生活が破綻すると、ゴッホは失意のなかでアルルを去りました。




フィンセント・ファン・ゴッホ《ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋》1888年、ポーラ美術館


フィンセント・ファン・ゴッホ《草むら》1889年、ポーラ美術館
サン=レミたび重なる精神の不調から、ゴッホは南仏のサン=レミにあるサン=ポール・ド・モーゾール療養院に入院しました。何週間ものあいだこの敷地のなかに留まらなければならなかったゴッホは、いくども発作を起こしながらも、病状が落ち着いた際には療養院の庭での戸外制作に取り組んでいます。さまざまな諧調の緑を用いて描かれた《草むら》はこの庭で描かれた作品であり、範囲を限定して庭の一角を取り上げることで、色彩の効果や草むらそのものの存在感が高められています。





オーヴェール=シュル=オワーズ1890年にゴッホがオーヴェール=シュル=オワーズに移り住んだのは、精神科医であるガシェによる治療を受けるためでした。ゴッホが亡くなるおよそ1ヵ月前に制作されたのが《アザミの花》です。画面の中心にはあざやかなアザミの丸い花が配されており、ここからアザミの鋸歯(のこぎりば)状の葉や麦の穂が、放射状の広がりを見せています。花瓶には同心円状に、そして背景には縦横に交差するかたちで、ゴッホ特有の細長い筆触が施されており、その描写は活力に満ち溢れています。ゴッホはオーヴェールの地で、自らの胸にピストルを発砲し、その2日後である7月29日に亡くなりました。



フィンセント・ファン・ゴッホ《アザミの花》1890年、ポーラ美術館




モーリス・ド・ヴラマンク
モーリス・ド・ヴラマンクヴラマンクが初めてゴッホの作品を目撃したのは、1901年にベルネーム=ジュヌ画廊で開催された個展でした。ゴッホの芸術のなかにある「自然の解釈にみられるほとんど宗教的とも言えるような感情」から啓示を受けたヴラマンクは、活力にあふれる作品の制作に取り組むにあたり、激しい色彩と厚みのある筆触を用いるようになります。1905年のサロン・ドートンヌにおいて「フォーヴ(野獣)」と評されたヴラマンクの苛烈な表現が生まれるうえで、ゴッホの芸術は本質的な起源としての役割を果たしました。

※モーリス・ド・ヴラマンク《シャトゥー》1906年頃、ポーラ美術館 作品画像は美術館Webサイトにてご覧いただけます

岸田劉生日本における西洋美術の受容において決定的な役割を果たしたのが、1910年(明治43)に創刊された文芸雑誌『白樺』です。ルネサンスからポスト印象派まで、さまざまな時代や地域の芸術を紹介したこの雑誌に魅了された画家のひとりが、岸田劉生でした。色彩の豊かさや筆触の力強さがみなぎる《外套着たる自画像》は、ゴッホの影響を如実に示した作品であり、外光派の影響から脱却した劉生が迎えた新たな時代が高らかに宣言されています。




岸田劉生《外套着たる自画像》1912年(明治45)、京都国立近代美術館


前田寛治《ゴッホの墓》1923年(大正12)、個人蔵
前田寛治戦前にゴッホの作品をまとめて鑑賞できる数少ない場所として知られていたのが、オーヴェールにあるガシェ家の邸宅でした。というのも、最晩年のゴッホを診察したガシェ医師のもとには、20点あまりのゴッホによる作品が遺されていたためです。オーヴェールはゴッホ巡礼の聖地となり、渡仏した日本人の多くがこの地を詣でました。そのなかのひとりが、画家の前田寛治です。ゴッホとその弟テオの眠る墓地で、「何時まで経っても覚めることが出来ない」狂気を感受した前田は、その日の夜にパリに戻ると、一気呵成にふたりの墓を描きあげました。




中村彝戦前の日本に招来されたゴッホの《向日葵》(1888年、戦災にて焼失)は、1920年(大正9)に神戸の実業家である山本顧彌太が購入したものであり、翌年の「白樺美術館第一回展覧会」で本邦初の公開となりました。肺結核で亡くなる前年に中村彝が制作した《向日葵》は、ひまわりの花の向きと配置が似通っていることから、ゴッホのこの作品を強く意識していることがわかります。その後、神戸での空襲の際に焼失するという悲劇に見舞われた《向日葵》は現在、日本における幻のゴッホ作品として知られています。




中村彝《向日葵》1923年(大正12)、石橋財団アーティゾン美術館


森村泰昌《肖像(ゴッホ)》1985年(昭和60)、ポーラ美術館copyright the artist, courtesy of ShugoArts
森村泰昌歴史上の人物や芸術作品に扮装したセルフ・ポートレートで知られる森村泰昌は、日本におけるゴッホの受容史を考察するうえで、欠くことのできない芸術家です。「最初に教えられる『美術』といえばゴッホ」であったと自らが語るように、1985年(昭和60)に森村が初めて扮装したのが、耳に包帯を巻いているゴッホの自画像でした。初公開となるポーラ美術館の新収蔵作品を通じて、さまざまな機会に制作された森村によるゴッホにまつわる作品の全貌を明らかにします。




福田美蘭福田美蘭は、現代における社会問題や世界各国の名作をテーマとして、ときにはユーモアを交えながら、既成概念を打ち破る作品を数多く手掛けてきました。《冬-供花》は、ゴッホの《薔薇》(1890年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー)を翻案した作品です。2011年(平成23)に東京の美術館でゴッホの描いた花の強烈な美しさに心を奪われた福田は、2年前の冬に父親が逝去した際に自宅に届けられた白い花々を思い起こします。自らが撮影していたそれぞれの花籠の写真に基づいて制作された本作品には、東日本大震災による犠牲者への哀悼の意も込められています。




福田美蘭《冬-供花》2012年(平成24)、豊田市美術館


桑久保徹《フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホのスタジオ》2015年(平成27)、個人蔵(C)Toru Kuwakubo, Courtesy of Tomio Koyama Gallery
桑久保徹自らのなかに架空の画家を設定し、「その画家に描かせる」という方法で絵画制作をはじめた桑久保徹は、ゴッホのような油絵具による厚塗りの技法を得意としています。《フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホのスタジオ》は、美術史における巨匠を取り上げて、想像上のアトリエを描き出した〈カレンダーシリーズ〉のなかのひとつです。今日において傑作として知られるゴッホの作品やこの画家にゆかりのある事物が河畔に取り集められている本作品は、星月夜を描いたゴッホの絵画を彷彿とさせます。




フィオナ・タンインドネシア出身のフィオナ・タンは、オランダを拠点とする映像作家であり、ドキュメンタリーとフィクションのあいだを行き来する、丹念なリサーチに基づいた作品に定評があります。《アセント》は、一般から寄せられた富士山を被写体とした約4,000枚に及ぶ写真を軸として、江戸時代から現代にいたるまでの富士山にまつわるイメージから構成されています。浮世絵の革新性と日本人の自然観を話題とした際にゴッホが言及される本作品では、西洋と日本の視線が交錯するなかで、富士山、ひいては日本にまつわる集合的記憶が浮かび上がります。




フィオナ・タン《アセント》2016年、ベルナール・ビュフェ美術館

関連プログラム
詳細が決まり次第、展覧会ウェブサイトにてお知らせいたします。

展覧会概要
「ゴッホ・インパクト─生成する情熱」
会期 2025年5月31日(土)~11月30日(日)会期中無休
会場 ポーラ美術館 展示室1、2、3
主催 公益財団法人ポーラ美術振興財団 ポーラ美術館

ポーラ美術館について
2002 年に「箱根の自然と美術の共生」をコンセプトに神奈川県箱根町に開館。印象派から 20 世紀にかけての西洋絵画を中心としたコレクションを核とする展覧会を開催する一方で、現代 美術の第一線で活躍する作家たちの作品も収集・展示し、同時代の表現へと展望を拡げている。 富士箱根伊豆国立公園という立地を生かした森の遊歩道では四季折々の豊かな自然を楽しめる。

開館時間:午前 9 時~午後 5 時(入館は午後 4 時 30 分まで)
入館料:大人¥2,200(シニア含む)/大学・高校生¥1,700/中学生以下無料/障害者手帳 をお持ちのご本人および付添者(1 名まで)¥1,100 ※すべて税込 団体割引あり
所在地:神奈川県足柄下郡箱根町仙石原小塚山 1285 TEL:0460-84-2111
公式ウェブサイト:https://www.polamuseum.or.jp/

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