横浜は日本における写真発祥の地の一つであることをご存知だろうか。その横浜と写真文化の熱い関係を示す3つの写真展がこの秋、立て続けに開催されている。横浜開港資料館では10月31日まで、「横浜写真」の草創期と全盛期を担った二人の写真家、下岡蓮杖と日下部金兵衛(商号「金幣」)の作品展「蓮杖&金幣ー横浜写真ことはじめー」が開催された。またBankART 1929では10月26日から11月10日まで、第一線で活躍する写真家たちの作品を展示する「横濱写真館」、1920年代から戦前まで横浜に数多くいたモダンボーイ、モダンガールの写っている写真を集めるプロジェクト「横濱モボ・モガを探せ!」が展開されている。またクロスゲート1階・桜木町駅前ワシントンホテルでは11月1日から7日まで、NPO法人 「ハマには浜を」が、横浜に砂浜があった頃の写真を集めた「ヨコハマ"浜"の記憶」を開催している。かつての横浜の姿を写し撮った写真を眺めることで、変貌を遂げてきた横浜の歴史が見えてくる。
横浜開港資料館で蓮杖&金幣「横浜写真」展 BankART、「横濱写真館」「横濱モボ・モガを探せ!」 NPOハマには浜を、写真展「ヨコハマ"浜"の記憶」開催写真家の森日出夫さんは、横浜という街にこだわり、「森の観測」と題して横浜の風景を撮影してきた。横浜で生まれ、長年街の移り変わりを見てきた森さんは「横浜は全国の都市の中でも最も変化が早い。好きだった場所がどんどんなくなっていってしまう」と語る。小学生の頃から横浜の映画館に通い文化の洗礼を受けてきたことが写真の世界に入るきっかけだったという森さん。街の風景を写真に撮ることで街に対する市民の意識を高めることは"写真家の使命"だという。「『何だろう』と思う前にシャッターを切っちゃう。他人の知識が入ったあとで写真を撮ったんじゃ、その場所の情景は出てこない。感じたまま撮ることで自分の感性が表れてくる」。
HIDEO MORI WEB森さんはアマチュアカメラマン7人にフィルムを渡し、1年間自分の住んでいる街の写真を撮ってもらうというプロジェクトを行ったこともあるという。その街に住んでいる人の目で見た風景だからこそ独特の視点があり、鑑賞者に"気付き"を与えるのだと森さんは語る。「写真を撮る行為を通して自分の街を愛するようになるし、撮った写真は街の財産になる。ぜひとも横浜の18区で同時にやってみたい」。デジタルカメラの普及により、写真に関する手間やコストがかからなくなってきた現在、市民の手により、今の横浜18区全体を写し撮る「街の写真アーカイブづくり」は十分実現可能と思われる。
アーカイブとはもともと「文書の保管庫」などの意味。デジタルアーカイブとは、文化財や歴史的文書などの文化的資源をデジタル技術を使って記録し、さまざまな形で活用できるようにすること。近年、国内外のさまざまな都市で先進的な開発や実験がおこなわれている。単に文化資産の記録保存という価値だけではなく、地域文化や地域経済活動を活性化するための手法としてもアーカイブ事業は注目され始めている。地域ブランドや地域コミュニティの構築、教育、文化事業、観光などの地域に根ざした事業を推進し、21世紀の新しい横浜の文化を産み出していくための仕掛けとしても、ここに暮らしてきた人々の記憶や想いを多くの人たちと共有することができるアーカイブの試みは有効であるといえるだろう。
「横浜」交流と発展のまちガイド 南学 編著/森日出夫 写真(岩波ジュニア新書)森さんは横浜に砂浜を取り戻す活動を行うNPO法人「ハマには浜を」に理事として参加している。「ハマには浜を」は、コンクリートで覆われてしまった横浜の海岸線にかつての砂浜を甦らせることを目的に設立された。理事長を務める作家の山崎洋子さんは「砂浜があれば人々は限りなく海に近づくことができます。水に触れることができなければ海の状態、水の汚染についても実感できません。環境問題は頭で考えるだけでなく、肌で触れて感じることも大切なのです」と砂浜を作ることの重要性を語る。具体的にどの場所に砂浜を作るのかは今後検討を重ねていくという。森さんは「小学校のころ、親父に連れられて三渓園で泳ぎ、潮干狩りをしたのを思い出します。かつてあった横浜らしい場所を次世代に残していかなくてはいけない。そのためには、市民が主体となって横浜の価値ある場所や文化遺産を守っていくという意識を持つことや、行政が市民と相談して都市開発をチェックする機関を設けることが必要」と語る。市民の意識を高め、経済性を重視した企業中心の都市開発を見直すという意味でも、「ハマには浜を」の今後の活動に期待したい。
NPO法人 ハマには浜を日本の写真文化の底上げを目指して活動している齋藤久夫さんも、街から「横浜らしさ」が失われつつあることを危惧している一人だ。齋藤さんはカメラマンとしての仕事も行いながら、NPO法人ザ・ダークルーム・インターナショナルの代表としてレンタル暗室の運営や写真に関する様々なワークショップを行っている。「僕たちの世代が"カッコいい横浜"を知っている最後の世代。今の横浜人は『めざせ東京』に見える。地方の人がイメージするような『横浜らしさ』は、実際の横浜からは失われつつある」1967年に横浜市中区で生まれた浜っ子の齋藤さんはそう語る。父が写真館をやっていたため子供の頃から写真に親しんでいた齋藤さんだが、写真を仕事にすることは考えていなかったという。しかし大学卒後に交通事故に遭ったことが転機となった。大怪我を負うが九死に一生を得て、それをきっかけに自分が本当にやりたいことを見つめなおし、写真を仕事にすることを決意したという。カメラマンとしての仕事が軌道に乗るようになった1999年頃、モノクロのレンタル暗室運営にも取り組み始めた。当時日本には安くて使いやすいレンタル暗室がなかったため、勉強のために何度も渡米。そこでアメリカの写真文化に触れてカルチャーショックを受けた。「日本では写真は暗いイメージだが、アメリカではステイタス。文化として市民の生活に根付いている」帰国した齋藤さんは日本の写真発祥の地・横浜でレンタル暗室の運営し、写真文化の向上を目指して活動していく決意を新たにしたという。
THE DARK ROOMアメリカの写真文化の拠点であるICP(International Center of Photography)を訪れ感銘を受けた齋藤さんは、その建物のイメージに近いという、かつて外国商社として使われていた歴史的建造物、ストロングビル(中区山下町)の2階に拠点を構え、レンタル暗室をスタートした。現在暗室の利用者であるNPO会員は約600人、齋藤さんを含め3人で暗室の運営・管理を行っている。会員はプロ・アマチュアを問わず、写真の撮影から暗室作業、展示までのプロデュースも行っている。また、ザ・ダークルーム・インターナショナルは様々な組織や団体一緒にワークショップを開催し、市民の写真文化向上に寄与している。今年春に赤レンガ倉庫で行われた、横浜市が所蔵する貴重なカメラ・写真のコレクション(ネイラーコレクション)の展示「カメラ今昔物語」では、デジタルカメラ・ピンホールカメラの体験コーナーのプロデュースを行った。また県立高校の総合学習の授業として暗室作業の体験ワークショップ、JR東日本労働組合主催の養護学校児童対象のイベントでは巨大なピンホールカメラの中に入るという体験ワークショップを行った。
「自分の視点をそのまま相手に見せることができる写真は最も簡単な自己表現の方法。カメラを介することで、その人が普段何を見て何を感じているのかわかるようになる」。子どもや障がいのある人をより深く理解するための道具としてもカメラは優れている。また斎藤さんは「写真を撮るという行為には自己救済や擬似所有、共感、共有といった癒しの効果もある」と写真の魅力を語る。写真がただの情報ツールではなく、アートの表現方法の一つであることを市民のかたに伝えていくとともに、今後は教育の分野にも力を入れ、県内の小・中・高校でワークショップを行っていくという。また、地域の大学との協働で、横浜の残すべき場所や風景を写真で記録する「横浜百景」というプロジェクトを展開していくなど、さらに活動の幅を広げていくようだ。
カメラマンとは、常に被写体の存在、動き、周囲との関係に注意を払い、その魅力を引き出す術を知っている人たちだ。被写体を多面体として全体像を捕らえ、その魅力を主観的に表現し見る者の心を動かすその力は、文化や街のあり方を考えるときにも新しい視点をもたらしてくれる。そんなカメラマンの目線から学び、新たな視点で都市の文化資産や様々な課題について考えていくことが大切なのではないだろうか。